宋の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:56 UTC 版)
大越による先制攻撃で多大なる損害を受けた宋は、直ちに反撃の策を練る。王安石は将軍郭逵(中国語版)(かくき)らに命じて兵馬の大軍団を組織するとともに、大越の南方に位置するチャンパやクメールに使者を送り、挟撃作戦を図ることとなった。チャンパは太寧5年(1076年)3月に参戦した。この動きを察知した大越では再度李常傑をもってチャンパに当たらせた。李常傑は勝利こそ得ることができなかったものの、かつて自身が勝利を得た戦で大越の領土に組み込んだ地哩・麻令・布政などの辺境に、自国の民を入植させている。 さらに全軍を大越に引き上げさせた李常傑は来るべき宋軍の報復に備え、国境地帯の各所に防塁を築いた。李継元(ベトナム語版)(リー・ケー・グエン)将軍率いる水軍を宋越国境地帯の海岸に配備し、歩兵を如月江(ニューグェト川。カウ川の下流)南岸に配備する。川沿いには長さ100キロメートルにわたって防塁と竹垣を築き上げた。
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