宋の大反攻と和平の前進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
詳細は「岳飛」および「郾城の戦い」を参照 高宗は1138年に秦檜を昇進させ、金との協議を担当させた。岳飛・韓世忠など多くの官人が和議を批判したが。秦檜は御史台の権限で敵を粛清し、交渉を続行した。1138年、宋と金は黄河を国境とし、高宗を金の「臣下」と認める条約に合意した。しかし、宋金両政府に条約への反対意見が残り、条約は発効しなかった。1140年初頭、完顔宗弼率いる金軍が侵攻し。その後、宋の大反攻で大きな領土を獲得した。宋将の劉錡は順昌軍で完顔宗弼との戦いに勝利した。岳飛は淮南を守る宋軍の指揮を任された。しかし、完顔宗弼は淮南に進まず開封に退き、岳飛軍は高宗の侵攻禁止の命令に従わずに金の領域に入った。岳飛は鄭州を攻略し、兵士を黄河に派遣して金に対する農民の反乱を煽った。1140年7月8日の郾城の戦いで、完顔宗弼は歩兵10万人、騎兵1万5千人の軍勢で宋軍に奇襲をかけた。岳飛は騎馬隊を率いて金軍の兵を攻撃し、決定的な勝利を収めた。その後、彼は河南に進み、鄭州と洛陽を奪還した。その後、1140年に勅令によって帰還するように命じられたため、岳飛は撤退を余儀なくされた。 高宗は、金との和平条約締結を支持し、軍部の主張を抑えようとした。また岳飛をはじめとする諸将の遠征の成功は却って和平交渉の障害となっていた。宋朝政府は岳飛・韓世忠・張順に爵位を与え、宋軍の指揮を解かせることで軍部を弱体化させた。条約を批判していた韓世忠は引退し、岳飛は抗議の意を込めて辞任を表明した。1141年、秦檜は岳飛を不服従の罪で投獄した。反逆罪に問われた岳飛は、1142年初頭に秦檜の命令で獄中毒殺された。和平交渉の際の金の外交的圧力が影響したかもしれないが、秦檜と金との共謀は厳密には証明されていない。 処刑後、南宋を擁護した岳飛の名声は国民的英雄にまで高まった。一方で秦檜は、後世の歴史家から宋を裏切ったと非難された。実際の岳飛は、彼の功績に基づく後世の神話とは異なっていた。岳飛は華北で金と戦った数多くの武将の一人に過ぎず、また伝統的な記述では岳飛が処刑されて金に服従したのは高宗が原因だとされている。秦檜は高宗が和平交渉の成功を感謝したことに対し、「和平の決定はすべて陛下(高宗)の裁断によるもので、臣(秦檜)はそれを実行しただけでありどんな功績があるだろうか」と返したとされる。
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