妖刀村正の鍛造(1648〜1750年)
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「村正」の記事における「妖刀村正の鍛造(1648〜1750年)」の解説
徳川家に災いをもたらす妖刀としての村正をはっきりと呈示した最初期の文献が徳川氏創業史の一つ『三河後風土記』である。序文では慶長15年(1610年)、犬山藩主平岩親吉の筆と主張するが、事実は偽書、成立年代も正保年間(1645-1648年)を遡れないと言われている。この書では、家康の祖父・父の災難に加えて、織田有楽斎・長孝父子が関ヶ原の戦い後の論功行賞の時に、長孝が猛将戸田勝成を撃破したという名槍(実は村正)を家康に請われて見せたところ、誤って家康が指に怪我をしてしまう場面が追加される。家康はこの鋭さは村正の作だろうと見抜き、有楽斎父子はこの槍を手放そうと言ったが、家康は特にその必要はないと返す。しかし、後になって有楽斎は周囲から村正と家康の祖父・父との因縁を聞き、では村正の作は御三代不吉の刀槍なのかと言って有楽斎が村正の槍をへし折り、以降、直臣から陪臣に至るまでみな(自発的に)村正の所持を禁じることになった、それで村正は廃れたのだと語られる。 基本的にはこの『三河後風土記』が村正妖刀伝説の発祥、あるいは少なくとも伝説を広めた当事者たちにはそういう意識があったようで、後に『耳嚢』の著者根岸鎮衛は、村正伝説の正しさの根拠を『三河後風土記』に求めている(鎮衛は『三河物語』も挙げているが、前述したように『三河物語』に村正を禁じる描写はない)。 もっとも、『三河後風土記』が広めたのは必ずしも負のイメージだけではなく、井伊直政・本多忠勝両雄が驚嘆するほどの上作、その鋭さだけで家康も「かの千子村正の作か」と言い当てるなど、武器としての出来栄えに匹敵するものなし、といったイメージも現れている。 『三河後風土記』の内容を早くも取り上げた一人が、当時『大日本史』編纂のため歴史書を集めていた徳川光圀で、没後すぐの元禄14年(1701年)に家臣が出した逸話集『桃源遺事』によれば、真田信繁(俗に幸村)が家康を呪詛するため常に村正の大小(打刀と脇差)を帯びていたとして、光圀は信繁を褒め称えていたという。なお、現実に村正を大小一揃いで所有していたのは家康の方である。 『通航一覧』(嘉永6年(1853年))に引用される幕府の内部史料『寛明日記』(時期不明、万治元年(1658年)以降)では、寛永11年(1634年)に不正で切腹した長崎奉行竹中重義に対し、付加刑の財産没収を執行してみると村正24振りが発見されたことについて、「当世、将軍から禄をもらっているものは言うまでもなく、陪臣に至るまで村正は禁止である」と指摘し、「きっと、今は廃れているこの不吉な刀を確保していたのは、幕府が滅べば値が上がると思ったからだろう。刑が切腹にまで重くなったのは天罰だ」と重義を批難する文章がある。 一方、重義の事件について、新井白石『藩翰譜』(元禄15年(1702年))では、「今は廃れているこの不吉な刀を確保していたのは、幕府が滅べば値が上がると思ったからだ」という文が、外からの評価ではなく事件の劇中の言葉になっていて、そのためこれを御上が聞き重義を深く非難してその場で誅戮した(死刑にした)としている。ただし、白石自身は「誠なりしにや」(本当だろうか)と疑いをはさんでいる。 『三河後風土記』の主張にも関わらず、実際は刀剣取引上で村正がすぐに廃れた訳ではなく、1700年頃までは何の問題なく売買されていたことが、万治4年(1661年)初版、元禄15年(1702年)再刊の刀剣書(『古今銘尽』第8巻)に、村正の取引における代付け(標準価格)が載っていることからわかる。村正の代付けは「代金一枚程」と掲載されている中では最低ランクだが、村正のように「新しい」刀工は表に入っている方が珍しく、和泉守兼定(之定)が「代金一枚五両程」、平安城長吉が「代金一枚程」と、村正と同時期の巨匠もやはり同程度の代付けである。 1700年を過ぎると徐々に浸透しつつあり、享保13年(1728年)に書かれた歴史書『落穂集』では、家康は子供の頃に村正で怪我をした、また長男信康の切腹の介錯に使われたのも村正であるという新しい伝説が追加され、家康の祖父が村正で殺されたことと合わせて村正の所持が禁止されてしまう。その禁止も、『三河後風土記』では家臣の自発的な禁止だったのが、『落穂集』では家康自らが村正を禁止したことになってしまっている。
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