妖刀村正伝説一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
以下、村正にまつわる有名な伝説を、典拠のおおよその成立年の順序で示す。 妖刀村正伝説の内容と典拠の一覧和暦西暦事実の内容典拠元和2 1616 徳川家康死去。自らが所持する二振りの村正を家宝として子孫に残す。 『駿府御分物御道具帳』2013年現在の尾張徳川家伝来品 和暦西暦伝説の内容典拠寛永3 1626 家康の祖父清康は、自らの家臣阿部弥七郎(阿部正豊)に村正の刀で殺された。 『三河物語』 寛永15? 1638? 家康の父広忠は、家臣の八弥に村正の脇差で刺された。致命傷ではない。 『松平記』 正保以後 1648以後 織田有楽斎らが村正の槍を家康に見せたが、家康が手を滑らせて指に怪我をし、血が出た。 『三河後風土記』 正保以後 1648以後 徳川家で禁忌になったのは1600年(関ヶ原の戦い直後)である。 『三河後風土記』 正保以後 1648以後 徳川家三代不吉の刀工である。 『三河後風土記』 正保以後 1648以後 家康自身は廃棄しなくてもよいと言ったが、家臣たちが自発的に所持を禁止した。 『三河後風土記』 正保以後 1648以後 徳川家に不吉として織田有楽斎が村正の槍を破壊した。 『三河後風土記』 元禄14 1701 家康を宿敵と見なした真田信繁(幸村)の愛刀は村正だった。 『桃源遺事』 元禄15 1702 長崎奉行竹中重義が村正を秘蔵、「幕府滅亡後に高く売ろうとした」との言、所持理由が言語道断として死刑に。 『藩翰譜』 享保13 1728 家康は子供の頃に村正で怪我をした。 『落穂集』 享保13 1728 家康の長男信康の切腹で介錯に使われたのが村正。 『落穂集』 享保13 1728 家康自身が廃棄を命じた。 『落穂集』 享保13 1728 徳川家で禁忌になったのは1579年(長男切腹後)である。 『落穂集』 明和4 1767 村正は闇討ちに適した道具である。 『川柳評万句合勝句刷』 明和8以前 1771以前 慶安の変で幕府を転覆しようとした由比正雪の刀は村正。 『慶安太平記』 天明6 1786 村正は狂気の刀工。その作品も狂気が乗り移っている。 『耳嚢』 天明6 1786 村正の子孫も不吉なものを作る。最近ついに鍛冶師を廃業した。 『耳嚢』 天明6 1786 村正銘の刀は嫌がられるため、銘を正宗に改竄した商人がいる。商人の妻はその村正で原因不明の自殺。 『耳嚢』 天明6 1786 「村正は見事だが不吉であるから買うのを取りやめた」(著者本人の証言) 『耳嚢』 寛政10以前 1798以前 家康の父広忠の死因は、暗殺である(村正によるかどうかは不明)。 『岡崎領主古記』 文政6 1823 江戸城で松平外記が発狂して千代田の刃傷沙汰を起こした時の差料は村正の脇差。 『甲子夜話』が記す世人の噂 天保8 1837 (官撰の史書)徳川家四代不吉の刀工である。 『改正三河後風土記』 天保14末 1844初 (村正伝説が幕府の正史『御実紀』(通称『徳川実紀』)の附録に収録される) 『御実紀』 嘉永6 1853 不正で切腹の竹中重義の財産を没収すると秘蔵の村正が。幕府滅亡後に高く売ろうとしたのだろう。切腹は天罰。 『通航一覧』に引く『寛明日記』 万延1 1860 (人殺しの魔力を持つ妖刀村正の歌舞伎がヒット) 『八幡祭小望月賑』 慶応3 1867 (村正がテーマの浮世絵) 大量殺人犯・佐野次郎左衛門が百人斬りに使った凶器が村正。 『英名二十八衆句』 明治21 1888 (佐野次郎左衛門の妖刀村正百人斬りの歌舞伎が大ヒット) 『籠釣瓶花街酔醒』 明治24 1891 Muramasa's blades had the reputation of being unlucky.(ムラマサの刃は不吉という評判があった) Things Japanese, 2nd edition
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