家康の長男・信康の切腹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 21:17 UTC 版)
二俣城といえば、家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。天正7年(1579年)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る。(以上が旧来、広く流布されてきた説話だったが、近年では信康が切腹に追い込まれた背景には家康や家臣団との対立があったためではないかという説も強くなっている。)信康は時に享年21。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせた。この寺・信康の墓ともに現存する。
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