『通航一覧』に引く『寛明日記』とは? わかりやすく解説

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『通航一覧』に引く『寛明日記』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)

村正」の記事における「『通航一覧』に引く『寛明日記』」の解説

「#『藩翰譜』」も参照 嘉永6年1853年)、林復斎らが幕命により編纂した外交史料集『通航一覧』第139巻には、長崎奉行竹中采女正重義平野屋三郎右衛門の訴出によって取り調べられ私曲のかどで寛永10年1633年)に切腹命じられ翌年切腹執行され死亡したことが記述されている。この事件中でも一番詳しいのが『寛明日記』からの引用である(以下、「『通航一覧』に引く『寛明日記』」は単に『寛明日記』と略記)。『寛明日記』は、寛永元年初から明暦3年末まで(1624-1657年)の事件関連する記事引用集として、幕府内部作られ史料で、編者不明編集時期不明である。 この記事によれば、「采女正切腹家内闕所」、つまり重義切腹決定した後に付加刑として闕所財産没収刑)を執行し、その屋敷調査したところ、おびただしい金銀財宝見つかっただけでなく、村正脇差24所蔵していたことが発覚したという。『寛明日記』の著者は、「さて、そもそも村正御当家三代不吉之例であり、陪臣に至るまで厳しく所持禁じていたのに、重義多数所持していたのはなぜか。思うに重義上作なのに現在廃れている村正の刀が、徳川の世ではなくなれば高く売れであろう考えたために村正多数保持していたのだ。極悪非道と言っても過言ではない。これらの刀・脇差なければもしかしたら遠島であっただろうか、だが悪が深いことにより(天罰で)切腹となったのだ」としている。 しかし、万治4年1661年初版元禄15年1702年再刊刀剣書(『古今銘尽第8巻)に村正取引における標準価額掲載されいるから1633年前後平時での売買のために村正多数所持していたとしても特に不思議はないまた、事件1633年から1634年にかけて発生したはずだが、記事著者言葉使い1648年以降書かれと言われている『三河後風土記』似通っている。 『三河後風土記』と『寛明日記』当該記事比較『三河後風土記』1648年以降)『寛明日記』当該記事1634年以降村正御三不吉ノ刀鎗 村正御当家三代不吉之例 村正作ハ徳川家御三不慮災難アリシ故ニ 御家人ハ不及申其倍臣ニ至ルマテ堅ク禁シテ扶持蒙る輩は不及申、至陪臣村正を禁す 上作トハナカラ自然ト廃レケル 村正上作なり、其出来甚たよし、然とも当代廃り 『寛明日記』が引用する記事同様の話題批難『御実紀』(『徳川実紀』)の「大猷院殿御実紀」巻二十寛永十一二月二十二条に引く『君臣言行録』にもある。『君臣言行録』は、人見竹洞が主となって編集しその死後編集続けられ1730年ごろに完成した言行録歴史書だが(序文に「元和二年以来十四五年」とある)、『寛明日記』の記事とどちらが先行するのかは不明

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