『通航一覧』に引く『寛明日記』
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「村正」の記事における「『通航一覧』に引く『寛明日記』」の解説
「#『藩翰譜』」も参照 嘉永6年(1853年)、林復斎らが幕命により編纂した外交史料集『通航一覧』第139巻には、長崎奉行の竹中采女正重義が平野屋三郎右衛門の訴出によって取り調べられ、私曲のかどで寛永10年(1633年)に切腹を命じられ、翌年に切腹が執行されて死亡したことが記述されている。この事件の中でも一番詳しいのが『寛明日記』からの引用である(以下、「『通航一覧』に引く『寛明日記』」は単に『寛明日記』と略記)。『寛明日記』は、寛永元年初から明暦3年末まで(1624-1657年)の事件に関連する記事の引用集として、幕府内部で作られた史料で、編者不明、編集時期不明である。 この記事によれば、「采女正切腹家内闕所」、つまり重義の切腹が決定した後に付加刑として闕所(財産没収刑)を執行し、その屋敷を調査したところ、おびただしい金銀財宝が見つかっただけでなく、村正の脇差を24差所蔵していたことが発覚したという。『寛明日記』の著者は、「さて、そもそも村正は御当家三代有不吉之例であり、陪臣に至るまで厳しく所持を禁じていたのに、重義が多数所持していたのはなぜか。思うに、重義は上作なのに現在廃れている村正の刀が、徳川の世ではなくなれば高く売れるであろうと考えたために村正を多数保持していたのだ。極悪非道と言っても過言ではない。これらの刀・脇差がなければもしかしたら遠島であっただろうか、だが悪が深いことにより(天罰で)切腹となったのだ」としている。 しかし、万治4年(1661年)初版、元禄15年(1702年)再刊の刀剣書(『古今銘尽』第8巻)に村正の取引における標準価額が掲載されているから、1633年前後に平時での売買のために村正を多数所持していたとしても特に不思議はない。 また、事件は1633年から1634年にかけて発生したはずだが、記事の著者の言葉使いは1648年以降に書かれたと言われている『三河後風土記』と似通っている。 『三河後風土記』と『寛明日記』当該記事の比較『三河後風土記』(1648年以降)『寛明日記』当該記事(1634年以降)村正ハ御三代不吉ノ刀鎗 村正は御当家三代有不吉之例 村正作ハ徳川家御三代不慮ノ災難アリシ故ニ 御家人ハ不及申其倍臣ニ至ルマテ堅ク禁シテ 御扶持を蒙る輩は不及申、至陪臣村正を禁す 上作トハ云ナカラ自然ト廃レケル 村正は上作なり、其出来甚たよし、然とも当代は廃り 『寛明日記』が引用する記事と同様の話題と批難が『御実紀』(『徳川実紀』)の「大猷院殿御実紀」巻二十四寛永十一年二月二十二条に引く『君臣言行録』にもある。『君臣言行録』は、人見竹洞が主となって編集し、その死後も編集が続けられ、1730年ごろに完成した言行録・歴史書だが(序文に「元和二年以来百十四五年」とある)、『寛明日記』の記事とどちらが先行するのかは不明。
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