執筆関係
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非常に筆まめであり、避暑で自宅を離れている間、あとに残った妻セツに毎日書き送った手紙が数多く残されている。ハーンは日本語がわからず妻は英語がわからないため、それらは夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉で書かれている。 「原稿は9回書き直さなければまともにならない」とし、文章にこだわった。例えば「雪女」の結文「Never again was she seen」のsの3連続を風呂鞏は代表例としてあげる。 著作の原稿料にはこだわっていたが貯蓄にまったく関心がなく、亡くなった当時小泉家には遺産となるものがほとんど残っていなかった。当時小泉家には妻の親類縁者が多く同居しており、著述業と英語教師としての収入はほぼ全額彼らの生活費に充てられていた。 アメリカ合衆国で新聞記者をしていたとき「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある。句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。 英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹で用意した英語の本をプレゼントしていた。 アメリカ合衆国在住中に勤勉が習い性となり、日本では学校教育の傍ら14年間に13冊の本を書いた。 tsunamiという英語を皆が知る英語にしたのはスマトラ島沖地震 (2004年)からであるが、最初に英語として紹介したのはハーンの 1897年の作品「生神」の英語版"A Living God"からである。
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執筆関係
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自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『コミック昭和史』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている事が多い。また水木の自画像は「現在の顔」と比べると細長く描かれているが、実際に貸本漫画家時代の水木は貧しくて十分な食事が取れなかった事情もあり、やせて細い顔をしていた。 売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。晩年は300冊を超えるという)。また、「ハヤカワ・ミステリ」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た桜井昌一は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。また、長井勝一は「貧乏していても資料を丹念に集めるという点では、類のない人だった」と回想していた。なお、若き時代の呉智英などが、その資料の整理を手伝った。 初期の作品には、海外の短編小説等からストーリーを転載したものもあったが、当時はまだ著作権に対する認識が浸透していなかった時代であり、特に問題とはならなかった。ただし、1966年に朝日ソノラマから刊行された『猫又』に収録された短編「太郎稲荷」は、星新一作品「福の神」とのストーリーの類似が指摘され、水木は盗作を認めて謝罪。朝日ソノラマが和解金を星に支払い、単行本『猫又』は「太郎稲荷」が削除された版が刊行された。「太郎稲荷」は水木しげる漫画大全集の『「忍法秘話」掲載作品〔全〕』が2013年に刊行された際に、そのまま収録されてしまい、星新一の遺族からの抗議をうけ、第3刷から『原作・星新一「福の神」(新潮文庫刊『妖精配給会社』所収)』と作品内に表記することで対応した。 水木作品では資料写真のみならず、国内外の絵画や彫像などの創作作品を模写したものが多数使用されている。なお、『水木しげる漫画大全集』の出版にあたり、海外のものも含めて一つ一つ著作権者を探して許諾を得ていった。 ある日長女に「手塚治虫先生の漫画には夢がある。お父ちゃんの漫画には夢がない」と言われ「馬鹿野郎!俺は現実を書いているんだ!」と激昂したという。 年下の手塚治虫にはライバル心を抱いており「屈折した思いもあった」と語る。それだけに、手塚治虫文化賞の内定を受諾した際、妻と二人の娘も「え?もらうの?」と驚いたという。 美人画や色っぽい絵を描くのが苦手で、よく担当の編集者からダメ出しをされていた。
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