反応と余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 01:33 UTC 版)
「イーストボーンの悲劇」の記事における「反応と余波」の解説
裁判は当時のメディアにとてもセンセーショナルに扱われた。マスコミはホープリーのことを不条理なくらい馬鹿にし、多くの学校教師、特に私立学校の教師を非難した。新聞は、少年の怪我と検視を絵で表して、その死の周りに広まっていた初期の噂を誇張した。少年の死は、広く世間で関心をもたれた初めての体罰死だった。裁判は傍聴希望者により混雑を極めており、始まる1時間前に法廷は入場券を発行した。ホープリーは信念の元に刑務所から教育に関する小論文を少なくとも2冊刊行したが、市民には受け入れられなかった。その直後、マスコミはホープリーが他の女性生徒に対して体罰で腕に火傷をおわせたことを報道し、ホープリーの名声は下がった。 刑務所から釈放されたホープリーは、すぐにセンセーショナルに扱われた離婚裁判に巻き込まれた。ホープリーは妻に愛情がなく虐待をしていた、という理由で妻から離婚を請願された。妻はホープリーが「教育的な実験」のために結婚した、と主張し、ホープリーの教育理論が「狂気の沙汰」であることの証拠だと語った。ホープリーと妻が1855年に結婚したときは、それぞれ36歳と18歳だった。裁判で妻は、ホープリーがしばしば夫婦の3人の子供たちは「第2のキリスト」として育たなければならないと妻に主張していた、と話した。最初の妊娠のころから妻を虐待し、後に脳障害と判明した最初の子供に対しても生まれて数日後に殴り、自分が懲役刑を受けている間は労役所に閉じこもるように言われた、と訴えた。ホープリーは、家族を幸福にするために規則をつくり、妻の愛情を強制していない証拠として収監されている間にラブレターを1組受け取った、と回答した。 陪審は、ホープリーを虐待で有罪だと評決したが、妻はホープリーからの自分への扱いを赦していたと判断した。そのため、裁判官は離婚の理由としては不十分だと決定した。しかし、市民の間で、虐待で有罪となった殺人者と婚姻状態を強制され続けるのはおかしい、判決は不当であるとの声が巻き起こった。伝えられるところでは、妻はホープリーに耐え続けることを避けるため、まもなくイギリスから出発した。 ホープリーは、裁判の後は世間に注目されなくなり、ロンドンで民間の家庭教師となり、1860年代後半には心霊主義に関する小論文を発表した。そして、1876年6月24日に死去した。1960年にタイムズ紙はホープリーのことを「一部の人々が想像していた悪人」ではない、と社説で論じた。ホープリーは逮捕されるときにはブライトンにモデルスクールを建てることを計画中であり、少年を殴った後も学校の図面を調べていた。 1865年、少年の死には成人水頭症と関係があることが医学専門誌により発表された。検視官の発表では少年は既存の病気をもっていなかったとあるにも関わらず、著者のサミュエル・ウィルクスは少年は水頭症であり、そのため怪我をしやすかった、と述べた。その内容は、検視で発見された少年の脳にあった液体を指しており、その液体の溢出によって身体が虚弱になったと主張したものだった。 このホープリー事件裁判は、1世紀後に体罰が公的に禁止となるまで、体罰についての法律解釈の手本となる実例として使用された。教育学の教授マリー・パーカー=ジェンキンスによると、ホープリー事件裁判は「19世紀の体罰問題で最も引き合いに出された判例」である。この判例は、一般市民が体罰に対して抗議を促進することが予測されたが、当時の教育雑誌は体罰を禁止する方向へ進むことを拒絶した。ホープリーの弁護に用いられた「正当な指導」という事由はその後もイギリスの体罰事件の被告によって頻繁に使用され、1933年に議員立法された「子供たちを保護する法律」にも取り込まれた。コックバーン判例の「穏やかで合理的」な懲罰の要件は、体罰に対する法的限度として確立され、現在でも法的学問に採用されている。
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