北朝鮮への上陸
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「在日朝鮮人の帰還事業」の記事における「北朝鮮への上陸」の解説
「宮本顕治#自主独立への道」も参照 北朝鮮が高度に閉ざされた体制をとっており、自由な往来が不可能であること、領域内において外国人の自由な活動を許していないこと、北朝鮮の文書資料の入手に難があることから、帰還者たちがどのように処遇されたかは脱北者などの証言からしか詳細には把握できていない。北朝鮮における身分制度である出身成分では最下層の「敵対階層」に分類され、また「動揺階層」として差別された。しかし、日本共産党の党籍を持っていたために「核心階層」となった者もわずかながら存在する。 初期の帰国船は、ソ連軍艦を改造した貨客船「クリリオン」「トボリスク」が使われた。1960年の第9次帰国船で北朝鮮に渡り、1963年に停泊中の日本船で密航し日本に戻った金鍾国は、船内では白いご飯がおかわり自由で、肉・魚・野菜がふんだんに使われた食事が供されたことや、菓子や煙草はいくらでも取って構わなかったと手記に書いている。これに対し、同時期に帰国船に乗り、1994年に脱北して韓国に亡命した鄭箕海は、帰国船の食事は、後から思えば北朝鮮ではご馳走だったが、ご飯も肉もすえた匂いがして食べる気がしなかったと記した。1960年、単身で北朝鮮に渡った青山健煕はソ連船「クリリオン」がたいへん粗末な船で船内に売店もなかったこと、悪臭のする米に閉口して一口しか食べられなかったこと、清津港の粗末な設備・老朽化した建物、「万歳」で出迎えてくれた数百人の女学生の身なりの粗末さと全員無表情で疲弊しきっている様子、列車に乗ってから目撃した物資欠乏と盗みの横行、移動中に出された嫌な匂いを放つ弁当を食べる帰国者がほとんどいなかったこと、その弁当を汽車で同行した北朝鮮の役人がうまそうに平らげていたこと、これらをみて、「楽園」の現実を知り、希望はすぐに幻滅に変わったことを記している。 帰還者は清津から北朝鮮に上陸すると、招待所と呼ばれる施設に一時的に滞在した。歓迎行事の後に経歴書や希望配置を北朝鮮当局に提出し、社会見学に数日を充てた後に、配置先を決める面接を受け、各地に散っていった。帰国事業の最盛期には毎週のように1,000人規模の帰還者が北朝鮮に帰還していたことから、佐藤久は「本人たちが納得できるような配置がはたしてどれだけ行われえたかは、容易に想像できよう」と否定的に捉えている。住宅事情も良くなかった。北朝鮮当局は宣伝雑誌等を通じて、近代的な住宅や生活様式を紹介していたが、ほとんどが宣伝の域を出ないものだった。ただし、住宅事情については、北朝鮮においては朝鮮戦争の停戦から帰還事業の開始まで6年余しか経っておらず、日本でも1968年までは総住宅数が総世帯数を下回っていた。 農村に配置された帰還者が、自らにあてがわれた住居を「お世辞にも立派な代物とは言えなかった」と評している手記がある。そもそも住宅の不足自体が、当時の北朝鮮社会にとって課題だった。また、社会主義国でよく見られる生活物資の慢性的な(あるいは決定的な)質と量の不足も、帰還者たちを戸惑わせた。物資の不足を日本にいる親族から補った者もいた。彼らにとっては生存の手段に他ならなかったが、異国で激しい民族差別を受けて生活苦に喘いでいたとされた人々が、このような手段で北朝鮮にないものを手にすることで、現地住民との間に溝を作ったようである。帰還者は妬みと差別の意味を込めて「帰胞」(帰国同胞)と呼ばれ、潜在的な反体制分子もしくはスパイとみなされ、社会的にも苦しい状態に置かれた。帰還者たちは、居住の自由や就職の自由、すべての自由が奪われていた。
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