利根運河株式会社時代
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工事を監督したのは、1879年(明治12年)に来日したオランダ人技術者のローウェンホルスト・ムルデルである(ムルデルの顕彰碑が、運河駅近傍の流山市立運河水辺公園に設置されている)。この計画は、単に利根川と江戸川を結ぶだけではなく、茨城県沖の鹿島灘をショートカットする内陸水路の建設とも連携し、太平洋岸の水運を一気に改善しようする壮大な計画の一環であった。 1885年(明治18年)にムルデルが江戸利根両川間三ヶ尾運河計画書を提出し、1886年(明治19年)1月12日に改修計画に着手した。1889年(明治20年)5月9日に千葉県庁へ利根運河開削願を提出し、同年11月10日に許可が出た。 開削許可に先立ち、1888年(明治21年)7月14日に起工、約57万円の費用と延べ220万人により、1890年(明治23年)2月25日に通水、同年3月25日に通船、同年6月18日に竣工式を開催した。工事期間中、ムルデルは、近隣の民家に泊まりこみ陣頭指揮にあたっていたが、完成の一カ月前に雇用期限が来たため帰国せざるを得なかった。このため式典ではムルデルの祝辞(訳文)が代読されている。 太政官布告に基き、原資償却を目的に、使用料の徴收を内務省が免許し、1887年(明治20年)11月から1949年(昭和24年)3月までの免許を、利根運河株式会社は保有していた。 利根運河株式会社の本社は、江戸川口の深井新田に置かれ、利根川口の船戸と、江戸川口の深井新田に、通航料を徴収する収入所が置かれ、付近一帯は船頭や船客相手の料理屋、食料品店、雑貨屋、回船問屋などが立ち並んだ。利根運河株式会社は、運河大師の勧請や桜並木の植樹等を行い、運河の観光地化を図り、現在の流山街道付近から江戸川口まで店が並び賑わいをみせた。 1891年(明治24年)の舟運は年間約37,600隻で、1892年(明治25年)4月14日に内国通運会社(現在の日本通運)が、利根運河に初めて汽船の運河往復試運転を実施、1893年(明治26年)4月1日に銚子汽船(後の銚子通運会社、銚子合同汽船会社)が初就航し、銚子-東京間は6時間短縮された。1895年(明治28年)2月15日には、東京-銚子間の直行の汽船が就航し、東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。 1896年(明治29年)7月22日に、台風による洪水(新潟県では横田切れが発生)で利根川と鬼怒川の合流点の河底が上がり、運河の水流が逆(利根川から江戸川へ)になった。田中村大青田総代人が、洪水の損害賠償を利根運河会社に請求した。 1896年(明治29年)12月25日に日本鉄道土浦線(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。1897年(明治30年)6月1日、銚子-東京間に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、所要時間が従来の5分の1(4時間)となった。これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年(明治43年)頃までのわずか20年程度であった。 1900年(明治33年)、国の河川政策が大きく変わる。今までは水運を優先して、水深を深して川幅を狭くしていたが、水害対策を優先する方針に変わり、川幅を広げて堤防を高くした結果、水深が浅くなって汽船の運行が困難になった。また、汽船乗り場が町から離れ貨物の積み替えも不便になり、水運が衰退する要因となった。 1914年(大正3年)時点での運河敷地面積は52町2反歩であった。 1935年(昭和10年)9月26日に、台風前面の温暖前線による豪雨が襲い大洪水となった。利根川側の水門は閉鎖されていたものの、江戸川からの逆流によって、利根川運河水堰の田中村・福田村両翼護岸が崩壊・越流破堤し、約200町歩の耕地へ氾濫・浸水した。 1937年(昭和12年)の舟運は年間約6,500隻程度に減少した。 1939年4月、利根川増補計画が内務省より告示された。1935年の洪水の反省から、運河両岸の堤防を大幅に強化するとともに、利根川と江戸川の高水位の差(1935年の洪水時は2メートル)を利用し、高水時は本運河を利用して利根川の洪水のうち500m3/sを江戸川へ放水することとした。
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