出生に関する異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
先述の通り、菊栄の生母は、岡上樹庵の妻、坂本龍馬の姉である坂本乙女とする説と、樹庵の側女である公文婦喜とする説の、2つの異説がある。 1940年(昭和15年)に土佐高等女学校(後の土佐女子中学校・高等学校)から発行された『土佐名婦伝』では、菊栄自身が「私の母は乙女」「乳母は婦喜」と著している。1941年(昭和16年)の『有栖川宮記念厚生資金選奨録』でも、菊栄自身が「叔父は坂本龍馬」と述べている。また菊栄自身の履歴書(菊栄の没後、長女が所持)や戸籍にも、母は乙女とある。この戸籍に対し、菊栄が母が乙女であることを否定する者からは、市長の名が近年の人物のため、戸籍は改竄されているとの指摘がある。しかし歴史写真家の前田秀徳は、過去の戸籍を縁者がとる際には現役市長の名が入ることは常識とし、また敬虔なキリスト教徒である岡上家に改竄はありえないと述べている。 一方で1911年(明治44年)に婦喜が死去した際、高知の土陽新聞(高知新聞の前身)の死亡広告には、婦喜が岡上家の籍に入っていないにも関らず「岡上婦喜」の名で、「菊栄 母」と記された死亡広告、つまり婦喜が菊江の母であるとの広告が掲載された。これに対し、小学6年まで婦喜と共に生活していた菊栄の長女の亀谷翠は、岡上家の出した広告ではなく、婦喜が岡上姓を名乗った事実はなく、死亡広告の内容にある死因も誤りであると述べている。この広告は、元士族である菊栄が、被差別部落の子供たちの世話などの下働きをしたことに対して、岡上家の親戚である坂本家の縁の者がその仕事を恥じて、菊栄が女中の子だとの広告を出し、絶縁を宣言したものとも見られている。 「岡上婦喜」の名を示すものとしては、婦喜の没後に作られた位牌にも「岡上婦喜」の名がある。前田秀徳はこれを、菊栄が行く先の無い婦喜を忍びなく思って、周囲から誤解を受けることも顧みずに、岡上家の一族として後に作ったものとしている。 太平洋戦争中期には、高知の郷土史家である橋詰延寿が、自らの歴史講義において、菊栄が乙女の子であることを否定し、菊栄の母が婦喜だとする説を唱え始めた。体格の大きい乙女に似ず、菊栄が小柄であること、および菊栄の誕生が乙女の離婚後であることなどが、その根拠とされている。 この橋詰の説に対し、ノンフィクション作家の武井優は、現存する乙女の写真を指し、大柄であることは認めつつも「巨婦のイメージは伝わってこない」と橋詰の説を否定している。先述の前川浩一らは、父からの樹庵の遺伝であれば菊栄は小柄で当然と述べている。また乙女の離縁については、前川浩一は、弟の坂本竜馬の脱藩に由来して山内容堂に遠慮したことによる偽装別居であることが菊栄の三女の書簡で解明されているとし、橋詰の説を否定している。坂本竜馬研究家であり、坂本家の縁者でもある土居晴夫は、1968年の著書『坂本家系考』において、乙女の離婚が菊栄誕生と同年の1867年であり、1歳に満たない我が子を置いて家を出ることは不自然との見解を述べている。 また、菊栄は乙女との交流が10数年だったのに対し、婦喜との交流が70年以上であったことも、婦喜が母と世間に信じられた理由の一つと見られている。一方では、菊栄の母が婦喜ならば、菊栄と婦喜の交流がそれだけ長い以上、菊栄は親のいない立場を悲しむはずもなく、孤児としての悲哀を感じた菊栄が博愛園の園母を引き受けたことこそが、母が乙女であることの証拠だとする見方もある。 なお菊栄や子供たちは、「菊栄は乙女の子ではない」との説を耳にしながらも、他ならぬ菊栄自身は、最期まで自分を乙女の子であると信じて疑うことはなく、子供たちも「祖母は乙女」と確信していたという。先述の橋詰の講義の際の聴講生に三女の千代がおり、「母は婦喜」との説に驚いて母の菊栄に問うたものの、菊栄は嫌な顔もせず、朗らかに笑い「生まれた赤ん坊には、誰が母親かわかるもんじゃないぞね」「子供は『この人がお母さん』と言われて育つもの。私も『この人がお母さん』と婦喜に教えられたから、そう思っただけ」「言いたいお人には、言っていただいたらいいわ」と返すのみであった。婦喜の子孫や縁者の者も、「菊栄は乙女の子」と証言している。 先述の土居晴夫は、菊栄が乙女の実子か否かに関らず、菊栄の社会に対する功績には一切関係ないと述べている。前川浩一は、菊栄の母が乙女であることを否定する説は、いずれ語られることが無くなるだろうとも述べている。
※この「出生に関する異説」の解説は、「岡上菊栄」の解説の一部です。
「出生に関する異説」を含む「岡上菊栄」の記事については、「岡上菊栄」の概要を参照ください。
出生に関する異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 06:51 UTC 版)
高和は先代当主・忠高の甥というのが通説であるが、実は忠高が側女との間に儲けた男子を、正室・初姫とその実家の徳川将軍家を憚って「甥」として届け出たという説がある。
※この「出生に関する異説」の解説は、「京極高和」の解説の一部です。
「出生に関する異説」を含む「京極高和」の記事については、「京極高和」の概要を参照ください。
出生に関する異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 12:51 UTC 版)
北斉で編纂された『魏書』は、北斉が北方の王朝であることから江南の東晋の正統性を認めておらず、諱の司馬睿(司馬「叡」表記)で呼んでいる。また、牛金の隠し子と主張している。
※この「出生に関する異説」の解説は、「元帝 (東晋)」の解説の一部です。
「出生に関する異説」を含む「元帝 (東晋)」の記事については、「元帝 (東晋)」の概要を参照ください。
- 出生に関する異説のページへのリンク