六祖壇経と禅の隆盛
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『六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』は、神会が六祖慧能を掲げて説いた新しい坐禅と禅定の定義とされる。これを元に後の中国禅宗は確立・発展した。 師衆に示して云く、「善知識よ、何をか名づけて坐禅とするや。此の法門中は、無障無礙なり。外に一切の善悪の境界に於て、心念が起こらざるを名づけて坐と為し、内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す。善知識よ、何をか名づけて禅定とするや。外に相を離るるを禅と為し、内に乱れざるを定と為す。外に若し相著れれば、内に心即ち乱れ、外に若し相を離れれば、心即ち乱れず、本性は自浄・自定なり。只だ境を見、境を思えば即ち乱るると為す。若し諸境を見て心乱れざれば、是れ真の定なり。善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。菩薩戒経に云く『我れ本元自性清浄なり』善知識よ、念ずるとき念中に、自ら本性清浄なるを見、自ら修し、自ら行じ、自ら成ずるが仏道なり。 — 『六祖壇経』坐禅第五 さらに『景徳傳燈録』に載せる、慧能の弟子の南嶽懐譲(677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一(709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。 開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。師、是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」一(道一)曰く「仏と作るを図る」師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。一曰く「師、什麼をか作す」師曰く「磨きて鏡と作す」一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」師曰く「坐禅して豈仏と成るを得んや」一曰く「如何が即ち是なる」師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是か、牛を打つ即ち是か」一、対無し。師又曰く「汝、坐禅を学ぶと為すや、坐仏を学ぶと為すや。若し坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若し坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、応に取捨すべからず。汝、若し坐仏せば、即ち是れ仏を殺す。若し坐相に執さば、其の理に達するに非ず」一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。 — 『景德傳燈錄』巻第五 この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。 般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。 中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。 やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した五家の観念が一般化して五家(五宗)が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐派の勢力が伸長し、五家と肩を並べるまでになり、この二派を含めて五家七宗(ごけしちしゅう)という概念が生まれた。 さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学・陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。
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