先史・古代日本の鹿狩り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:08 UTC 版)
「ニホンジカ」の記事における「先史・古代日本の鹿狩り」の解説
縄文時代の人々の主な狩猟対象は鹿と猪であった。日本語の「シカ」という言葉の語源は肉(食肉)を意味する「シ」(シシ)と毛皮を意味する「カ」が合わさったものと考えられている。古代人がシカを衣食両方の重要な供給源として見なし、非常に近い距離で関わり合っていたことがうかがえる。 遺跡から出土するシカの遺存体を観察すると、頭蓋骨の後頭部が破壊されていたり、四肢骨が螺旋状に割られている状況から肉や内臓だけでなく、脳や骨髄も食用にされていたとみられている。また、細長い骨である中手骨や中足骨、堅く弾力性のある角などはヤスや銛、釣り針、弭、ヘアピン、垂飾品などの装飾品ほか、様々な道具の材料として利用されていた。シカの捕獲方法は様々であったと思われるが、縄文時代の早い時期には、陥し穴状の遺構が見つかっている。また、肩甲骨に石鏃が突き刺さったまま残っている遺物も出土しているので、弓矢を使用した狩猟が盛んに行われていたことが考えられる。他にヤスや銛などを使ったり、ワナを仕掛けたことも考えられる。当時の人々がシカをどのように考えていたかということは研究上の重要な問題である。縄文時代ではイノシシを模した土製品が少なからず出土しているが、反対にシカを模した土製品はこれまでひとつも見つかっていない。このことから、縄文時代において重要な狩猟動物であったイノシシとシカのうち、イノシシは当時の精神世界や観念上において一定の役割を果たしていたと考えられるが、シカは「単なる食料、もしくは道具の材料」という極めて実用的な役割であったと考えられている。 北海道ではイノシシが自然分布しないため、シカが主要な狩猟対象獣であったと考えられている。アイヌも同様にシカ(エゾシカ)はイヨマンテなどの儀礼に使用されず、また、シカの神(カムイ)そのものも存在しないと言われている。宗谷地方などエゾシカが稀な地域を除き、シカは単なる食料の対象であったと見られている(宗谷地方でのシカの扱いについては、更科源蔵の著作でも言及されている)。他方で伝承に措いては“ユカッテカムイ”即ちシカを支配する神が居て、その神がシカの骨を地上にばら撒く、或いはシカの魂が入った袋の口を緩める事で数多くのシカが地上に齎される、或いは捕らえたシカを粗末に扱う等のタブーを犯すとこの神の逆鱗に触れ、シカが地上に齎されなくなる、などの描写が多く確認できる。2007年(平成19年)、厚真町ニタップナイ遺跡の発掘調査において6㎡の範囲に25頭の上顎頭骨が見つかり、17世紀中葉のシカ送り儀礼の痕跡が確認されている。 弥生時代以降、本州では本格的な稲作農耕の開始に伴なう害獣駆除や農閑期の狩猟活動があったとはいえ、食料資源の中でシカの比重は相対的に低下したと考えられる。その一方で、この頃から、シカを「霊獣」として扱う傾向が芽生えてきたとも見られている。縄文時代とは反対に、シカは、銅鐸のモチーフとして登場するようになるが、一方でイノシシは銅鐸のモチーフとしては登場しない。1年ごとに生え替わる角が1年のなかで同じようなスケジュールで生育する稲と関わりがある、と考えられていたのであろう。日本の神話や伝承では豊作を願い、水田にシカの死体や血を捧げるような儀式が描かれることがある。この点でシカとイノシシは同じ農作物や田畑を荒らす(シカは稲籾そのものを食べてしまい、イノシシは稲をなぎ倒す)害獣ではあるが、シカの方が日本人の大部分が「農耕民族化」していくなかで「霊獣」としての地位を獲得していった。 古墳時代においてもシカは形象埴輪のモチーフとなっている。 天武天皇は675年(天武天皇4年)に、律令国家の大きな税収源である稲作を保護・促進するため、稲作に役立つ動物の保護を目的として牛馬犬猿鶏の肉食を、稲作期間である4月〜9月に限って禁止した。シカとイノシシは稲作の害獣と見なされたために肉食を禁じられていない。春日大社、 鹿島神宮、北口本宮冨士浅間神社のような古い神社で現代でも神鹿が飼われているのは日本人と鹿狩りの古い関わりの名残りである。 なお、鹿肉を「もみじ」ともいうがこれは前述の通り「鹿」は秋の季語であり、「秋」と「鹿が棲息する場所」で「紅葉(もみじ)」を連想させるため、そういわれるようになったといわれている。
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