先史・古代の治水とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 先史・古代の治水の意味・解説 

先史・古代の治水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:03 UTC 版)

治水」の記事における「先史・古代の治水」の解説

日本治水の歴史弥生時代遡るといわれている。この時代は、洪水避けるため扇状地河川から離れた地域水田営まれる例が多かったまた、氾濫から集落耕地防御するための排水路土手遺構発見されている。 本格的な治水事業古墳時代3世紀中期 - 6世紀中期)に始まった畿内成立したヤマト王権は、4世紀後期から5世紀にかけて統一政権としての政治力背景として主に河内平野開発着手した当時河内平野東部には河内湖草香江)が広がっており、淀川大和川氾濫流が流入してしばしば洪水発生していた。この洪水を防ぐため河内湖から河内湾排水する難波の堀江開削され、淀川流路固定する茨田堤築造された。これらの治水事業仁徳天皇事績仮託されている。この時代多数営まれ前方後円墳築造するための土木技術河内平野中心に行われた治水との関連指摘されている。当時代表的な治水遺跡として岡山市津寺遺跡がある。足守川旧流路沿って約90mにわたり6000本以上の打ち込まれており、堤防護岸の跡だと推定されている。これが最古治水遺跡一つであるが、成立古墳時代末期から奈良時代にかけてと見られている。 8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは治水は非常に重要視された。律令上、治水国司および郡司主要任務である勧農一つ据えられ(『職員令大国守条、『考課令国郡司条)、水害発生した際の応急処置の手続きまで詳細に定められていた(『営繕令近大条)。また、河川など公共物として農業用水などの利用洪水対策など方針については国家定めるとした「公水主義」が掲げられていた。畿内近国では、淀川などの大河川で水害発生した際に国司郡司では対応が困難なため、中央から特に「修理堤使」や「検水害堤使」「築堤使」などが派遣され国家直営治水対策実施されることもあった。また、平安京に近い賀茂川遠江国荒玉河などでも大規模な工事が行われている。このように律令国家による治水一定上の機能発揮していたが、9世紀後期から10世紀の間に律令国家体制形骸化するのに合わせて公水主義放棄され地元豪族などに用水の管理などを一任されるようになり、律令国家治水衰退していった。この時期治水小規模な用水路溜池造営留まるうになる空海築いたとされる満濃池はその代表的なものである。

※この「先史・古代の治水」の解説は、「治水」の解説の一部です。
「先史・古代の治水」を含む「治水」の記事については、「治水」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「先史・古代の治水」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「先史・古代の治水」の関連用語

1
2% |||||

先史・古代の治水のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



先史・古代の治水のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの治水 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS