先史から鎌倉時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:28 UTC 版)
日本の騎兵は、大陸と異なる独特な発展を遂げた。 日本列島では古墳時代の4世紀末から5世紀に家畜としての馬が九州に伝来し、方形周溝墓や古墳の副葬品として馬骨や馬歯、馬具が出土しており、乗馬として用いられたと考えられている。 律令国家の時代、天武天皇は武官に対して用兵・乗馬の訓練に関する発令をし、大宝律令と養老律令を通じて学制で騎兵隊が強調された。 ヤマト王権と対立した蝦夷は狩猟で培った騎射を主体に戦う騎兵部隊であった。騎射の技術は俘囚によって伝わり、武士たちは乗馬と弓の技術を「弓馬の道」と呼び戦闘技術として尊ぶようになった。これ以降は騎兵であることは武士の身分を示すものでもあった(詳しくは武士、士分の項を参照のこと)。封建制の発展した中世の日本において、武士達は西洋の封建領主(騎士)のように、自身らは騎兵として武装し、郎党、従卒からなる徒歩の兵を引きつれ戦争を行った。 ヨーロッパの騎士が槍による突撃を好んだのに対し、日本の武士は弓を主力とし、薙刀や大太刀などの打物は矢が無くなってから使用する武器であった。また大陸の遊牧民や蝦夷が軽装で馬上で取り回しが良い短弓を使う軽装短弓騎兵であったのに対し、日本の武士は重装備である大鎧を纏い、威力を重視した長弓(和弓)を使う重装長弓騎兵であった。この類型は日本独自である。 日本において、騎兵の戦術に長けていた指揮官としては、一ノ谷の戦いで騎兵を生かした奇襲攻撃で勝利した源義経がいる。 日本の騎兵が海外の軍隊と交戦した例として元寇がある。文永の役において、九州に出動した御家人は元軍と激戦を繰り広げた。 元寇における鎌倉武士の様子をモンゴル帝国の官吏・王惲は「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。[訳語疑問点]但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」 と鎌倉武士が騎兵を密集させて集団で戦っていたことを指摘している。『蒙古襲来絵詞』絵五にも鎌倉武士が騎兵を結束させて集団で戦っている様子が描かれており、王惲の指摘を裏付けている。
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