先史・古代・中世
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『吾妻鏡』に拠れば、平安時代後期の治承4年(1180年)10月13日には甲斐源氏の一族が甲府盆地から富士北麓に至る若彦路を通過したとされる。若彦路のルートは鳥坂峠を越えて上芦川に達し、大石峠を越え都留郡大石(富士河口湖町大石)に至ると考えられている。戦国時代には中道往還が甲斐・駿河間を結ぶ道として発展し、若彦路の重要性は低下する。 天正10年(1582年)の織田信忠禁制に拠れば、中芦川・上芦川は鳥坂峠を挟んだ竹居(笛吹市御坂町・笛吹市八代町)と一帯の地域で、「竹井足河惣郷」と称されたという。これに対して、鶯宿(おうしゅく)は芦川上流域が含まれる九一色郷に属した。鶯宿は江戸時代にも中世以来の諸役免許の特権を持ち、商業活動を行った。
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先史古代・中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 14:10 UTC 版)
古代の律令制下では巨麻郡川合郷に属していたと考えられている。 平安時代後期には甲斐源氏の一族が甲府盆地の各地に土着して勢力を持つが、八日市場には甲斐源氏の始祖である源義光(新羅三郎)を開祖する大聖寺がある。河内地方には南部氏の一族が進出するが、町域に勢力が及んだ甲斐源氏の一族は確認されていない。南北朝時代の建徳2年(1371年)10月15日付渋谷重門譲書(「入来院文書」)に拠れば、西嶋は薩摩国入来院を領し入来院氏と祖となる渋谷重門が領しており、以来15世紀末まで渋谷氏領であった。 戦国時代には南部氏に代わり甲斐守護・武田氏の一族である穴山氏が進出し、穴山氏は甲斐の有力国衆として武田氏と敵対していたが、やがて武田氏に服従した。天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると甲斐・信濃の武田遺領を巡り天正壬午の乱が起こる。穴山氏や武田遺臣は徳川家康の麾下に属し、相模国の後北条氏と争った。徳川家臣の岡部正綱は駿河から甲斐へ入ると、町域の寺沢に菅沼城を築城させたという。甲斐一国が家康の支配下に治まると菅沼城は下山館に代わり河内地方の支配拠点となるが、家康の関東移封により城は破却された。
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