作者の同定と制作年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 21:13 UTC 版)
「キリスト磔刑と最後の審判」の記事における「作者の同定と制作年」の解説
『キリスト磔刑と最後の審判』の作者は、長い間ヤン・ファン・エイク、フーベルト・ファン・エイクあるいはペトルス・クリストゥスの三者で揺れてきた。美術史家ヨハン・ダヴィド・パサヴァンは1841年に、フーベルトとヤンのファン・エイク兄弟による合作だとしていたが、1853年にはヤン単独の作品であるとして自身の説を修正した。ベルリンの絵画館の初代館長も務めた美術史家グスタフ・フリードリヒ・ワーゲン (Gustav Waagen) は19世紀半ばに、ペトルス・クリストゥスの署名がある1452年の「最後の審判」と構成が似ていることを根拠として、『キリスト磔刑と最後の審判』はクリストゥスの作品だと断定した。しかしながら1887年に絵画館はこの説を改め、作者はヤン・ファン・エイクと思われるとしている。1917年に『キリスト磔刑と最後の審判』を入手したサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館は、ヤン・ファン・エイクの作品であるとして所蔵していた。 ブライソン・バローズは、ニューヨークのメトロポリタン美術館が『キリスト磔刑と最後の審判』を購入した1933年に、作者はフーベルト・ファン・エイクだと判定した。バローズはこの作品が「繊細で感受性豊か」で表現力のある画家の手によるものだとし、それぞれのパネルの窮地におかれた人物像への共感に圧倒されたが、それでもなお線描が繊弱だと判断した。バローズによるこの分析は、超然として冷徹だといわれてきた名匠ヤンの作風とは相容れないものだった。しかしながらバローズも「フーベルトの作品である確固たる証拠は何もない」ことには同意していた。自身の見解が「限定的、不完全な」もので「状況証拠しかない仮定の」判断であることを認めていたのである。現代の研究者の間では、この作品の作者はフーベルトではなくヤンであるという意見が主流となっている。作風がヤンのものであり、フーベルトが死去した1426年にヤンはアルプスを越えてイタリアを訪れるときに、『キリスト磔刑』の背景のような山並みを描いた作品を制作していることなどが根拠として挙げられている。 装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』には複数の画家たちの手によるミニアチュールが収載されている。画家のうち「画家 G」として分類されている画家はヤン・ファン・エイクであると考えられており、『トリノ=ミラノ時祷書』に収載されている7葉のミニアチュールが、この『キリスト磔刑と最後の審判』と比較されることがある。「画家 G」のミニアチュールと『キリスト磔刑と最後の審判』は技法や作風がよく似ている。『トリノ=ミラノ時祷書』のキリスト磔刑図と『キリスト磔刑と最後の審判』にそれぞれ描かれている人物像の類似性から、これらの作品は同時期の1420年代から1430年代初めにかけて描かれたものだと結論付ける美術史家もいた。現在の美術史家の多くは、「画家 G」のミニアチュールの下絵と『キリスト磔刑と最後の審判』はファン・エイクが少なくとも原型となるオリジナルのデザインは担当したと考えている。エルヴィン・パノフスキーも『キリスト磔刑と最後の審判』の作者は「画家 G」だとした。『トリノ=ミラノ時祷書』のミニアチュールが世に知られるようになったときには、その制作年度は装飾写本の依頼主であるベリー公ジャンが死去した1416年以前だと考えられていた。しかしながらこの説は間もなく否定され、ミニアチュールの制作年度は1430年代初めだとされている 。 オットー・ペヒトは『キリスト磔刑と最後の審判』に『トリノ=ミラノ時祷書』の「画家 G」の作品と同じ「特有の作風と独創的な風景描写」が見られるとしている。ペヒトは「画家 G」がヤン・ファン・エイクかフーベルト・ファン・エイクのどちらかだと考えていた美術史家である。美術史家ティル=ホルガー・ボルヘルトは『キリスト磔刑と最後の審判』の制作年度が1440年ごろだと推定し、美術史家ポール・デュリューは1413年ではないかとした。美術史家ハンス・ベルティングとダグマー・アイヒベルガーが「物語作家ヤン・ファン・エイク (Jan van Eyck als Erzähler)」を1983年に著すまで、研究者たちはもっぱら『キリスト磔刑と最後の審判』の制作年度と作者の問題を論じるばかりで、この絵画に影響を与えた作品や寓意表現の存在については軽視していた。『キリスト磔刑と最後の審判』の制作年度について、ベルティングとアイヒベルガーは1430年ごろだという説を唱えた。これは「キリスト磔刑」のパネルの、「鳥瞰図」的な透視図法と地平線描写、狭い場所に押し込まれるように密集して描かれた群衆像、そして画面下から上へと時間が流れていく物語的表現といった特徴によるものだった。ベルティングとアイヒベルガーは、このような手法はヤン・ファン・エイクの初期の作品に採用されているもので、1430年代以降はほとんど見られなくなった手法だと主張している。 『キリスト磔刑と最後の審判』の下絵が、1430年代に描かれた署名入りのファン・エイクの作品と作風が一致していることも、『キリスト磔刑と最後の審判』が1430年代に描かれたという説の傍証となっている。さらに描かれている人物像が着用している衣服が1420年代に流行したものであり、とくにこの作品の制作依頼主の可能性があるブルゴーニュ公妃マルグリッドがモデルとなっているともいわれる「キリスト磔刑」のパネルの右前面のシビュラが、1430年代初頭のスタイルの衣服を身に付けていることも制作年度が1430年代であることを裏付けているとされている。 「最後の審判」の画面上部は、これといった個性のない画家が描いたと見なされている。ファン・エイクは「最後の審判」の下絵こそ完成させたものの、作品を仕上げきることはなかったと考えられており、未完の部分はファン・エイクの死後に工房の弟子や協業者が描きあげたといわれている。メトロポリタン美術館の学芸員マリアン・エインズワースは、この見解とは別の説を唱えている。当時のネーデルラントとフランスの美術界は密接な関係にあり、おそらくはベドフォードの画家 (en:Bedford Master) と呼ばれている経歴未詳の画家の工房からブルッヘへと来訪したミニアチュール作家ないし装飾写本作家が、ファン・エイクと共同で「最後の審判」のパネルを完成させたのではないかとエインズワースは推測している。
※この「作者の同定と制作年」の解説は、「キリスト磔刑と最後の審判」の解説の一部です。
「作者の同定と制作年」を含む「キリスト磔刑と最後の審判」の記事については、「キリスト磔刑と最後の審判」の概要を参照ください。
- 作者の同定と制作年のページへのリンク