作者の同定と制作年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 04:55 UTC 版)
「教会の聖母子」の記事における「作者の同定と制作年代」の解説
『教会の聖母子』の作者の同定や制作年代の比定は、19世紀から20世紀にかけての初期フランドル派に対する研究の進展が影響している。現在の学説の主流はこの作品が1438年から1440年ごろに描かれたとするものだが、1424年から1429年ごろの作品だという説も根強く残っている。15世紀に制作が開始された装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』には、複数の画家たちの手によるミニアチュールが掲載されている。これらの画家の詳細は伝わっていないが、現在では「画家 G」とよばれている画家はヤン・ファン・エイクだと考えられている。しかしながら19世紀終わりごろには「画家 G」はヤン・ファン・エイクの兄であるフーベルト・ファン・エイクだとされており、1875年に発行されたベルリンの絵画館のカタログでも『教会の聖母子』はフーベルトの作品であると記されていた。20世紀初頭においても、ジョルジュ・ユラン・ド・ルーのように『教会の聖母子』はフーベルトが描いた作品であると断定した美術史家もいた。現在では『トリノ=ミラノ時祷書』の「画家 G」や『教会の聖母子』の作者がフーベルトであると考えている美術史家はおらず、現存するフーベルトの絵画作品は極めて少ないといわれている。1912年に発行された絵画館のカタログでも、『教会の聖母子』の作者はヤン・ファン・エイクであると訂正されている。 『教会の聖母子』の制作年代の比定も時代と共に変遷している。19世紀には1410年ごろの作品だとされていたが、研究が進むにつれてこの説は否定されるようになった。20世紀初頭にはオーストリア人美術史家ルードヴィヒ・フォン・バルダスが1424年から1429年ごろの作品だという説を唱え、後に1430年代初頭の作品だとする説が主流となった。そしてドイツ人美術史家エルヴィン・パノフスキーが『教会の聖母子』を詳細に調査し、1432年から1434年ごろの作品であるとした。しかしながら、リトアニア出身の美術史家メイヤー・シャピロ (en:Meyer Schapiro) がさらに研究を重ね、1953年に出版した『初期ネーデルラント絵画』で『教会の聖母子』の制作年度は1430年代後半だと主張している。1970年代には、ヤン・ファン・エイクが1437年に描いた『聖バルバラ』との研究比較で、『教会の聖母子』は1437年以降に完成を見たという説が唱えられた。オーストリア人美術史家オットー・ペヒト (en:Otto Pächt) も1990年代に、1434年の作品『アルノルフィーニ夫妻像』と屋内描写が酷似しているとして、おそらくヤン・ファン・エイクの後期の作品ではないかとしている。21世紀になって、アメリカ人美術史家ジェフリー・チップス・スミスとジョン・オリヴァー・ハンドが、1426年から1428年の作品であるという新説を唱えた。もし1425年ごろの作品という説が正しければ、ヤン・ファン・エイクの真作と認められている作品の中では『教会の聖母子』が最初期の板絵ということになる。
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