作者の推定・旅の目的
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 02:24 UTC 版)
「甲州道中図屏風」の記事における「作者の推定・旅の目的」の解説
甲州道中図屏風においては、随所に二人連れの武士が登場しており、屏風絵の作者であるとも考えられている。本屏風絵に描かれる人物の大半は武士で農民・町民が登場していないことが指摘され、旅程が農繁期である8月から9月に想定されていることからも、作者は武士であると考えられている。一行は身延山参詣の頃から同伴者が増え、芦ノ湖畔では四人の人物が描かれている。 屏風絵の作者と思われる武士の属する家中は不明。甲斐国ゆかりの武士による甲州紀行では、文政13年(1830年)の武田勝頼250遠忌に武田遺臣である土浦藩主・土屋氏家臣の吉田兼信が甲斐を旅して『甲駿道中之記』を記録している事例がある。髙橋修は屏風絵の作者が甲斐国を統治した柳沢氏の家中の人物である可能性を検討しつつ、柳沢氏発祥の地である北巨摩郡を旅していないことを指摘している。 一方、旅の目的については、屏風絵では戦国時代の甲斐武田氏に関する史跡が多く登場することが指摘される。郡内では岩殿山(大月市賑岡町岩殿)をめぐり、「井戸」「池」「馬場」「大手跡」など各種遺構の所在地を正確に記録していることが指摘され、城跡を歩いていると考えられている。「濁池」は上野原市大椚の長峰砦跡に所在し、『風流使者記』によれば武田家臣・加藤景忠(丹後守)の砦跡とされる。国中では武田氏館跡(甲府市古府中町)を巡り、甲府城下図で記載されている例の少ない「一ノ森」「ニノ森」「三ノ森」などを記載している。これらの事実から、屏風絵の作者は武田家に関する史跡に興味を持ち、現地に詳しい人物の案内を得て旅を行っていたと考えられている。 また、身延山久遠寺をはじめ題目塔や石和鵜飼に関する石和宿など、日蓮伝承に関わる旧跡も多く巡っている点も特色とされ、作者は日蓮宗に帰依した人物であったとも見られる。
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