佐々木玲圓道場 / 坂崎道場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 03:57 UTC 版)
「居眠り磐音」の記事における「佐々木玲圓道場 / 坂崎道場」の解説
佐々木玲圓(ささき れいえん) 江戸の神田・神保小路の直心影流佐々木道場(後に尚武館ささき道場)の主。磐音の剣術の師匠で、名は道永(みちなが)。幕府と秘かな繋がりを持っている。攻めの苛烈さから、その剣術は炎の剣と呼ばれ、後継となる磐音であろうと容赦しない。将軍徳川家治の日光社参では秘かに同行し、大納言徳川家基を磐音と共に救った。しかし、家基の死後、妻と自害して果て、殉死を禁じた幕府の意向(田沼意次の指示)により佐々木道場は取り潰しとなる。 佐々木えい(ささき えい) 玲圓の妻。子を宿さなかったことで佐々木家断絶の覚悟を胸に秘めていたが、磐音を養子に迎え、また、おこんを磐音の妻に迎えたことで佐々木家存続が決まる。おこんとの仲も良く、奉公人の早苗や門弟の霧子と共に道場の台所を守った。また、磐音を通じて三味芳六代目鶴吉の紹介でおこんと共に三味線を習う。しかし、家基の死後、玲圓と共に自害する。 依田鐘四郎(よだ かねしろう) / 本多鐘四郎(ほんだ かねしろう) 佐々木道場で住み込みの師範を務める。磐音の兄弟子。後に西の丸御納戸組頭・依田新左衛門の娘お市と結婚し、依田家に婿入りし、速水の推挙により西の丸近習衆となる。しかし、家基の死後、御役御免となり、江戸に戻った磐音を助ける。磐音が速水救援に赴く際は影武者として道場を守った。 松平辰平(まつだいら たっぺい) 佐々木道場の住み込みの門弟。旗本松平喜内の次男。「痩せ軍鶏」のあだ名を持つ。内心を見せず、慎重に行動することが多い。磐音らが関前に行く時に同行を求め、その後、武者修行へと旅立つ。肥後熊本、対馬厳島、筑前福岡等で5年の修行の後、豊後関前を経て土佐で利次郎と合流し、磐音らと再会した後、江戸へ帰着する。後に博多の大豪商・箱崎屋次郎平の末娘お杏と祝言を挙げ、筑前福岡藩へ仕官し、御番衆にして剣術指南役となった。愛刀は豊後国僧定秀2尺6寸(箱崎屋からもらった大刀)。 重富利次郎(しげとみ としじろう) 佐々木道場の住み込みの門弟。土佐藩近習目付重富百太郎の次男。「でぶ軍鶏」のあだ名を持つ。無口で負けず嫌いであり、同じく「痩せ軍鶏」のあだ名を持つ辰平といつも争っている。後に父の御用で共に江戸を出立し、国許に旅に行き、土佐藩を巡る内紛に巻き込まれるが佐々木道場の兄弟子に当たる一刀流麻田勘次と共に決着を着けた。そのため、藩主山内豊雍や重臣らからの覚えも良い。その後、辰平と合流し、紀伊で磐音らと再会した後、江戸に帰着する。やがて霧子と祝言を挙げた後、豊後関前藩へ仕官した。 重富霧子(しげとみ きりこ) / 霧子(きりこ) 雑賀衆のくノ一。日光道中での徳川家基への襲撃に加わり、その際に弥助に捕らえられる。後に佐々木道場の門弟となり、雑賀衆と決別。その後は忍び働きで磐音を助け、磐音とおこんが江戸を離れた際は弥助と共に2人の護衛や密偵を務め、紀伊姨捨の郷へ2人を導いた。田沼一派との戦いを経て江戸へ帰着する。速水救援の際は磐音たちと共に駆けつけた。利次郎に嫁いでからは関前藩の長屋での生活となり、利次郎が通いで道場に稽古に向かう時は自身も一緒に行う。 小田平助(おだ へいすけ) 富田天信正流槍折れの使い手で佐々木道場の客分として門番を務める。玲圓や磐音に請われて道場の長屋に住み、季助の手伝いをする傍らで門弟たちの指導を行う。佐々木道場断絶後に道場の処分が決まるまで留守を任され、磐音とおこんが江戸を離れた際は小梅村の今津屋の寮に移る。また、今津屋より内々に依頼を受けて影警護を担い、自らも紀伊姨捨の郷で磐音らと再会した後、江戸に帰着した。帰着後は下半身を鍛えるために槍折れを修行の1つとして取り入れ、その指導に当たる。 季助(きすけ) 道場の門番を勤める老人。道場破りが置いていった白山という犬の世話をしている。玲圓の死後は磐音に仕えている。弥助・平助と並んで「三助年寄り」と呼ばれる。 田丸輝信(たまる てるのぶ) 尚武館道場の住み込みの門弟。御家人田丸輝左衛門の三男。母・菊野から青蓮院流の書体を学んだことから、道場の書状を認める時には頼られる。やがてさかざき道場の師範代となり、神保小路に尚武館道場が再興した後の小梅村の道場の運営を任された。尚武館道場に奉公していた竹村早苗と結婚した。 神原辰之助(かんばら たつのすけ) 尚武館道場の住み込みの門弟。後に輝信と同じく師範代となり、利次郎が江戸留守中の間の豊後関前藩剣術指南役となった。 向田源兵衛(むこうだ げんべえ) 元芸州広島藩の下士。間宮一刀流の使い手で名は高利(たかとし)。藩政を二分する騒ぎに立ち向かったため脱藩し、江戸で「殴られ屋」を営んでいたところ、その腕に磐音が感服し佐々木道場の客分として迎えられた。しかし再び広島藩の内紛と立ち向かうこととなり、内紛の因を見事取り除いたことで旅に出ることとなった。磐音は「道場はいつなりともそなたを迎える」と別れ際に伝えていたため、十数年後に再び江戸に舞い戻り、輝信とともに小梅村の道場運営を任された。
※この「佐々木玲圓道場 / 坂崎道場」の解説は、「居眠り磐音」の解説の一部です。
「佐々木玲圓道場 / 坂崎道場」を含む「居眠り磐音」の記事については、「居眠り磐音」の概要を参照ください。
- 佐々木玲圓道場 / 坂崎道場のページへのリンク