豊後関前藩
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福坂俊次(ふくさか としつぐ) 関前藩の藩主。元は日出藩木下家分家、立石領5000石の領主の弟であったが、前藩主の実高の養子となって関前藩の跡継ぎとなった。尚武館道場にも入門し、磐音の指導を受ける。 中居半蔵(なかい はんぞう) 関前藩国家老。江戸屋敷詰直目付や藩物産所組頭、江戸留守居役を歴任。
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豊後関前藩
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福坂実高(ふくさか さねたか) 関前藩の藩主。当初は藩政に無頓着であったが、参勤交代で江戸に赴いた直後、宍戸派が藩を乗っ取らんと画策したのを受けて磐音に直筆の上意文を託した。その後も磐音に対する覚えが良く、藩の危難に立ち向かう磐音に感謝している。 お代の方(おだいのかた) 実高の正室 。小城鍋島藩の姫。後に鑓兼参右衛門にそそのかされ、罪を償うために剃髪し鎌倉尼五山東慶寺に入るが、3年後に還俗し実高の許に戻った。藩邸に戻る前に、磐音と実高の心遣いにより江戸藩邸からの出迎えがあり、そこで初めて俊次と対面した。 お玉の方(おたまのかた) 実高の側室。鑓兼一派の推挙により、側室となる。後、懐妊したが正睦の機転により鑓兼一派には懐妊の事実が伏された。出産後の教育係として照埜が実高より命じられた。やがて男子、実継を出産するが実高の命により跡継ぎは俊次のままとなった。 福坂俊次(ふくさか としつぐ) / 木下俊次(きのした としつぐ) 日出藩木下家分家、立石領5000石の領主の弟。実高の養子で江戸に入るとすぐに佐々木道場に入門する。日出藩の藩道場で東軍流を会得していた。後、田沼の息が掛かる鈴木清兵衛の門弟に襲われるが家臣と尚武館道場の門弟たちにより死守された。 福坂利高(ふくさか としたか) 関前藩江戸家老。藩主・実高の従兄弟。後に藩の公金を横領していた事実が発覚し、坂崎父子を襲うが磐音に斬られる。死後、藩主主導で利高派は粛清された。 中居半蔵(なかい はんぞう) 関前藩の江戸屋敷詰直目付。直心影流目録の腕前で磐音と共に藩政改革に着手する。やがて藩の物産所の組頭に命じられ、廻船貿易に専念し、藩の改革を押し勧める。磐音の関前帰着の際、藩内に癒着がらみの不穏な動きがあることを磐音に伝えた。後に藩物産所を若手に任せ、自らは留守居役に任じられた。 宍戸文六(ししど ぶんろく) 関前藩国家老。かつては藩中興の祖といわれる切れ者であったが、年を経るにつれ頑迷になり、失政が目立つようになる。材木の転売で財政を救おうとするが、江戸の大火で材木が全焼、逆に巨額の負債を抱え込んでしまう。改革派であった坂崎磐音、河出慎之輔、小林琴平らによる藩政改革を恐れ、姦計を策して仲間割れをさせる。後に自害。秀晃という嫡男がいる。 東源之丞(ひがし げんのじょう) 関前藩郡奉行。磐音の中戸道場での先輩に当たり、正睦の側近として藩政改革に携わる。藩内における癒着の動きに関前から大坂に出向き、探索している最中に磐音と再会。共に関前に向かい、癒着事件の真相を掴んでいく最中に金で雇われた浪人に襲われて瀕死の重傷を負うが奇跡的に助かる。甥の2人も関前藩士。 中戸信継(なかと のぶつぐ) 関前藩城下にある神伝一刀流中戸道場の道場主。磐音の最初の師匠。河出慎之輔、小林琴平もこの道場に属していた。中戸道場隆盛時は藩道場を自任していたが磐音が藩を離れた5年後に病に倒れてからは新しく出来た新陰流諸星道場に門弟が移籍したこともあり、落ち着かない日々を過ごしていた。しかし、磐音の関前帰着後に磐音と辰平の打ち合いを見て感動。体調が優れない時でも道場に顔を出すようになった。
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