豊後電気鉄道による再建
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「豊後電気鉄道」の記事における「豊後電気鉄道による再建」の解説
1906年1月4日、資本金16万円で「豊後電気鉄道株式会社」設立された。初代社長には豊州電気鉄道の債権者佐々木長治が就任。破綻した豊州電気鉄道から事業一切を引き継ぎ、経営の再建に着手した。 新体制となった豊後電気鉄道では積極経営を展開する。具体的には、鉄道事業では線路の修繕と車両の改修を実施する、供給事業では大分町での電灯供給を開始する、そして石炭価格高騰対策として水力発電を試みる、という3点であった。鉄道事業ではこの時期路線の延伸はなかったが、運転速度の向上に取り組み、乗合馬車よりも所要時間を短縮することに成功する。あわせて電気・電車に関する知識の宣伝や、長洲観音の沿線誘致(仏崎に奉置した)と運賃割引をセットにした集客策などを展開し、利用客の増加に繋げた。その結果1907年(明治40年)10月には電動客車(定員43人)3両と電動貨車を1両増備し輸送力を増強するまでになっている。 1907年5月30日、豊後電気鉄道は24日に発足したばかりの「大分水電株式会社」を合併し資本金を50万円とした。この大分水電は大野川の沈堕(ちんだ)の滝を利用して水力発電所を建設する目的で、長野善五郎(二十三銀行=現・大分銀行頭取)らにより発起された電力会社である。合併により豊後電気鉄道の社長には大分水電の長野が就任し、前社長の佐々木は副社長となった(その後1914年死去)。 大分水電の合併により大野川水系の水利権を取得した豊後電気鉄道では、技術顧問に芝浦製作所の岸敬二郎を招聘し、1908年(明治41年)に沈堕発電所の建設に着手した。発電所は翌1909年(明治42年)4月、出力500キロワットで完成。その発生電力は大分町までの約44キロメートルを22キロボルト送電線によって送られ、大分町での電灯・電力供給事業に充てられたほか電気鉄道にも利用された。
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