伝染病研究所・佐々学
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「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「伝染病研究所・佐々学」の解説
東京大学伝染病研究所(以下、伝研と記述する)の佐々学(さっさ まなぶ)は同僚の加納六郎を誘い、1948年(昭和23年)7月、八丈小島のバクを調査するために八丈小島を訪れた。 佐々学(1916年 - 2006年)は1916年(大正5年)に東京神田で生まれ、東京帝国大学医学部を1940年(昭和15年)に卒業し伝研へ入所する。直後の同年5月、大日本帝国海軍軍医科士官となり、駆逐艦「東雲」乗組の軍医として日本と中国大陸の間を何度も往復したり、掃海母船「栄興丸」乗組の軍医としてソロモン諸島など南洋の島々を巡り、船内で乗員の虫垂炎手術を行うなどした。その後、大日本帝国が占領していたペナン島(現マレーシアジョージタウン)に滞在し、午前中は外科の診療に従事し、午後は島内の病院や保健所へ出向いて熱帯医学 Tropical medicine を学んだ。大日本帝国が占領する前のペナン島は、イギリス東インド会社の極東進出に始まるイギリスの植民地支配の拠点であったため、イギリスの医師・研究者たちによる熱帯医学の基礎研究が進んでいた。それを受け継ぐペナン島の現地医師たちは、熱帯医学への知見において、当時の日本の医師たちを大きく上回っていたという。佐々はそれまで教科書でしか知らなかった数々の熱帯病の症例を目の当たりにし、特にマラリア、フィラリアなどの蚊を媒介とする熱帯性感染症の研究に没頭していった。 それらの研究を通じ佐々は Species Control(スピーシズ・コントロール)対種駆除という考え方に初めて接した。たとえばマラリアを媒介するのは蚊であるのだから、予防のためには片端から蚊を駆除すればよいという大雑把なものではなく、マラリアを媒介する蚊の種を特定し、人間のマラリアを媒介する蚊だけを駆除すればよいという考え方である。この考え方はマラリアに対してだけでなく、フィラリア、黄熱病、デング熱、日本脳炎といった蚊を媒介とする熱帯性の感染症の予防対策の基礎となる重要な考え方であった。佐々はマレー人の医師や研究者からその区別方法を伝授されると同時に、当時は敵国であったイギリスの医療知識や技術に感嘆し、日本にはない熱帯医学に関する各種論文や医学書を読み漁り、その理念や技術を日本語に翻訳し、ペナン島でのマラリア対策を克明に記録したものとともに、東京築地にある海軍軍医学校へ逐次送付し続けた。佐々は海軍軍医学校から呼び戻され、マラリアの予防法を若い軍医に教える傍ら、さらに研究を進め、マラリア媒介蚊の種類を判別するための図鑑『大東亜共栄圏のアノフェレス蚊の鑑別図鑑』を作成した。この図鑑は全軍に配布され、佐々は日本における熱帯病研究者としての地位を確立していく。その後、佐々は海軍陸戦隊の軍医として南シナ海に浮かぶ海南島で終戦を迎え、内地へ復員した。籍のあった伝研へ戻った佐々は、GHQの要請を受けて、日本脳炎の研究のために来日した医学者アルバート・サビンの助手をすることになった。東京都や岡山県で複数の蚊を採取してはさまざまな角度で研究を行う佐々を気に入ったサビンは、日本での研究成果をアメリカの医学雑誌で発表する際に、自らの名前だけでなく佐々の名前を加えた。 佐々は復員後2年も経たずに東京大学医学部の助教授になった。さらに、共同研究者も集まり始めた1948年(昭和23年)、ロックフェラー財団が募集した公衆衛生学の戦後初となる日本人留学生2名の1人に佐々は選ばれ、1年間のアメリカ留学が決まっていた。しかし、具体的な出発の日取りは2か月以上も決まらないでいた。そのころの同年6月下旬、伝研を訪れた東京都の職員から「八丈小島にはバクという風土病があり、何年も発熱が散発的に続いて足が太くなる」という話を佐々は聞く。バクという病名も八丈小島という島名も初めて聞く名前であったが、「足が太くなる」という症状から佐々は即座にフィラリアを疑った。早速さまざまな資料や文献を調べてみたが、このときは「バク」が何なのか分からなかったという。俄然興味が湧いた佐々は日取りが決まらないアメリカ留学を控えていたものの、急遽八丈小島行きを決めた。
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