伝歴とは? わかりやすく解説

伝歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 18:13 UTC 版)

費隠通容」の記事における「伝歴」の解説

7歳の時父を12歳の時母を亡くし14歳三宝寺の慧山に就いて出家崇禎3年1630年7月に古黄檗山萬福寺において密雲円悟法嗣となり、臨済宗31伝となる。 崇禎6年1633年)に密雲から萬福寺住持を継席。隠元隆琦西堂としすぐのちに付法崇禎10年1637年隠元源流法衣授ける。 その後温州府永嘉県法通寺・海塩県粟山廣慧寺・寧波府鄞県天童山景徳寺松江府華亭県超果寺・嘉興府崇徳福巌寺杭州府余杭県径山興聖万寿寺蘇州府常熟県虞山維摩院・淮安府塩城県永寧院などの寺院積極的に巡り臨済の法を伝え密雲並称された。 晩年福巌寺移り順治18年3月29日1661年)、示寂する。世寿69隠元含め64人にも嗣法多く門弟育てた密雲円悟開いた臨済宗天童派の中で、唯一費隠の門流が盛んとなっている。

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伝歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 06:47 UTC 版)

十六国春秋」の記事における「伝歴」の解説

北魏崔鴻が撰した元本北宋代には散佚してしまっており、現代まで伝えられてはいない。元本の全100巻は、司馬光が『資治通鑑』の編纂引用した北宋初期には二十余巻を除いて散逸していた。現行本は、明代になって『北史』『晋書』載記」などの諸書から輯佚したものであり、元本とは異なっている。 また、漢魏叢書中にも十六国春秋16巻収載されているが、こちらの伝来不明であり、北魏崔鴻の手になる元本とは異なっている。その他、『広雅書局叢書中には、清の湯球が撰した「十六国春秋纂録校本10巻、「十六国春秋輯補」100巻がある。こちらは、『晋書』各種類書引用される佚文を輯集したものであり、その典拠明記されている。また、そこには同撰者による「三十春秋輯本」も収載されている。

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伝歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 09:37 UTC 版)

水経注」の記事における「伝歴」の解説

酈道元の『水経注』は当初40巻本であったが、10世紀前後には、亡失の巻(晋代郭璞三巻大漢和辞典より)が出て完本ではなくなっていた。それと共に、本来は別個であった経文注文とが混雑してしまった。それを、明清学者たちが調査し校合した結果、数種の復元なされたその中で最も詳細な考証加えたのが、明の謀㙔が1615年に撰した『水経注箋』である。その土台の上に、全祖望1705年 - 1755年)や戴震1723年 - 1777年)らがテキスト復元した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 15:12 UTC 版)

密雲円悟」の記事における「伝歴」の解説

父は蒋曦、母は潘氏。8歳念仏唱えたという。酒色溺れ16歳妻帯29歳出家決意し妻を捨て万暦23年1595年正月顕親寺の幻有正伝に就いて出家したその後、幻有に随って竜池山禹門禅院住した万暦30年1602年)、幻有が燕京に移るもそのまま留まり監院を託された。万暦31年1603年)、38歳にして銅官山(常州府宜興県)にて大悟する。40歳のとき幻有にまみえるため燕京普照寺に赴き2年間過ごす。その後、径山・天台山・竜池山など各地巡り、周海門居士・陶望齢・王舜鼎らと問答繰り返すうち海東法道広まった万暦36年1608年)、紹興の護生庵に移り万暦38年1610年)、幻有が竜池山に戻ると翌年訪ね46歳のとき幻有より付法される。万暦42年1614年)、幻有が示寂。これより3年間その随従し、万暦44年1616年12月遺骨を墓に納めた翌年、衆に請われて竜池山禹門禅院にて開堂した。天啓元年1621年12月匡廬・衡嶽に行き天啓2年1622年12月天台山通玄寺台州府天台県)に住した天啓4年1624年5月、金粟山廣慧寺(嘉興府海塩県)に普山。殿堂などの整備進め禅林とした。 崇禎3年1630年3月黄檗山住持となるが、8月には金粟山廣慧寺に帰り崇禎4年1631年2月阿育王寺寧波府鄞県)に移り4月天童山景徳寺寧波府鄞県)の住持となった。ここでも荒廃した寺院復興し僧が雲集した。 崇禎15年1642年)、天台山通玄寺戻り同年7月結跏趺坐のまま示寂した。世寿77費隠通容12名に嗣法した。

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