任天堂時代 (2000年-2015年)
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「岩田聡」の記事における「任天堂時代 (2000年-2015年)」の解説
2000年6月、任天堂社長の山内溥に経営手腕を買われて任天堂に入社し、取締役経営企画室長に就任した。 2001年5月に米国で行われたゲームの見本市「E3 2001」では、同年9月14日に発売を控えていた新型ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」に関するプレゼンテーションを行った。 『大乱闘スマッシュブラザーズDX』の開発が遅れ、発売予定の2001年11月までの完成が危ぶまれる事態に陥った際には、山梨県のハル研究所に出向いて開発現場を指揮し、不具合を調べる作業(コードレビューやデバッグ)を行った。これがプログラマーとしての最後の仕事となった。 2002年、42歳のときに山内から指名を受け、5月31日付けで任天堂の代表取締役社長に就任。任天堂は、1889年に山内溥の曽祖父である山内房治郎が創業して以来、山内家の同族経営であったため、当初、次期社長は山内溥の長男・山内克仁か娘婿の荒川実だと思われていた。そうした中での入社2年目の岩田の抜擢は、異例中の異例であった。なお、それまで会社の意思決定は社長に一任されていたが、岩田の社長就任以降は取締役会によって決定されることとなる。これは「今後の時代に対応するには、集団指導体制にするべき」と考えた山内からの提案である。 社外出身で社内基盤が弱かったため、社長を補佐するための集団指導体制が整備され、代表取締役の増員により、代表取締役会長にシャープ出身の浅田篤が、代表取締役専務には波多野信治、竹田玄洋、宮本茂らがそれぞれ就任するなどした。 2003年に開催された東京ゲームショウの中で岩田は基調講演を行い、「日本のゲーム市場では、ゲーム離れ現象が進行している」と、業界全体への危機感を示した。こうした状況を打開するため、任天堂は「ゲーム人口の拡大」を基本戦略として位置づけ、幅広い層を対象としたハード、ソフトの開発に取り組むことになる。 その一環として、2004年12月2日に、タッチパネルを搭載した2画面携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売。年末商戦期に投入されたこともあり、年末年始のみで約150万台を売り上げた。 翌年の2005年からは、多くの世代が手に取ることを目指したソフト群「Touch! Generations」を展開し、ミリオンセラーのソフトを複数生み出した。特に『脳を鍛える大人のDSトレーニング』は社会現象となり、略称の「脳トレ」は流行語として広く浸透した。また、ニンテンドーDSで利用できる「ニンテンドーDSブラウザー」や「ワンセグ受信アダプタ DSテレビ」などの周辺機器も発売した。 2006年11月19日には、リモコン型コントローラで操作する家庭用ゲーム機「Wii」を発売。このWiiでは本体の電源を毎日入れてもらうことを目指し、天気やニュースなどの様々なコンテンツを含む「Wiiチャンネル」が内蔵された。また、歴代のゲーム機で発売されたゲームソフトをダウンロード購入してプレイできる仕組み「バーチャルコンソール」も導入された。 同2006年からは、任天堂ホームページ上で岩田が社内の開発者にインタビューする企画「社長が訊く」を開始する。当初は発売を間近に控えたWii本体や同時発売のWii用ソフトの開発者に話を聞くものだったが、その後、新作ソフトが出る際などに定期的に行われるようになり、他社のクリエイターを招いて話を訊くこともしばしばあった。 2011年より、発売予定のゲームソフトに関する情報を動画で岩田が直接伝える試み「Nintendo Direct」を開始。後に、岩田だけでなく任天堂や他社のクリエイターも登場するようになった。 2011年2月26日に発売したニンテンドーDSの後継機「ニンテンドー3DS」は普及が進んだものの、本体価格の値下げによる逆ザヤ状態での販売が続いたことなどが響き、2012年3月期の決算で通期営業赤字に陥った。また、2012年12月8日に発売したWiiの後継機「Wii U」は販売台数で苦戦し、特に海外市場での販売鈍化が目立った。2013年には任天堂の米国法人CEOも岩田が兼任することとなった。
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任天堂時代
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「レジナルド・フィサメィ」の記事における「任天堂時代」の解説
2003年12月、米国任天堂の営業部門担当上級副社長に就任、米国・カナダ・南米での営業活動全体を率いた。2006年5月25日、君島達己に代わって最高執行責任者に昇進、アメリカ人として初めて米国任天堂のトップに立った。説得力のある話し方などから個人的人気を集め、WiiのコードネームであるRevolutionをもじって「Reggielution」という言葉も生まれた。 2006年11月から世界各国で順次販売を開始した据え置き型ゲーム機のWiiでは任天堂社長の岩田聡やゲーム開発者の宮本茂との激しい議論の末、北米と欧州向けに販売される同ゲーム機に『Wii Sports』を同梱させることを実現した。 2016年6月からは任天堂本社の執行役員を兼務した。 2019年2月、同年4月15日付で米国任天堂を退社すると表明し、後任として営業マーケティング部門担当上級副社長のダグ・バウザー(英語版)が社長に昇進することを発表した。これに伴い、任天堂本社の執行役員も退任した。
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