任子・富貲・良家子など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:46 UTC 版)
詳細は「任子」を参照 「虎賁」および「羽林」も参照 結論から先に言うと、漢代に郎選の中核を担ったのは郷挙里選の孝廉である。しかし、そこに至るまでには様々な登用制度があった。南宋の王応麟の『玉海』によると、漢代を通じて行われた郎選は、任子、富貲、献策、孝著の4種類あり、これらの他にも実技を要求される良家子と射策の2つがある。孝著は孝廉と同じ背景を持つのでこの節では詳細に扱わないが、王応麟が例として挙げた馮唐は孝廉が始まる前の人物で、厳密に言えばこれは孝廉でないので区別する。射策は博士弟子と対になる制度なので、郷挙里選の一種として次の節で扱う。 任子 二千石以上の高官がその任期を3年以上務めた場合、子か弟、つまり後継者を1人選んで郎官にすることができた。蘇武(蘇建の子)の例: 武、字は子卿、少くして父任をもって兄弟並びに郎となり、稍ありて遷りて移中厩監に至る。 霍光(霍去病の弟)の例: 時に年十余歳、光を任じ郎となし、稍ありて諸曹、侍中に遷す。 若年で就任するためか、郎官以外にも蕭育(中国語版)の太子庶子、馮野王の太子中庶子、汲黯の太子洗馬など、年齢の近い皇太子に関する役職に就く例があった。また、「1人」というルールは守られず、馮奉世は3人の子を、史丹は9人の子を任子とした。漢代の人物伝で全く説明がなくいきなり「少くして郎となる」などとなっている場合は、前後関係からほぼ任子で説明できるケースが多く、あるいは外戚や宗室などの記述が稀な身分による登用が省略された形と考えられる。梁商(中国語版)(外戚)の例: 少くして外戚をもって郎中を拝し、黄門侍郎に遷る。 劉焉(宗室)の例: 焉は少くして州郡に任じ、宗室をもって郎中を拝す。 富貲 飢饉の対応などの名目で、一定の額を寄付した者を郎官にした。司馬相如の例: 貲をもって郎となる。 献策 皇帝に政策を提案して認められた者を郎官にした。劉敬の例: ここにおいて、上曰く「本より秦の地に都すを言う者は婁敬なり。婁は乃ち劉なり。」。劉氏と姓を賜い、拝して郎中となし、号して奉春君となす。 主父偃らの例: 天子に書奏し、天子は三人を召見す。謂いて曰く「公等は皆、いずくにか在る。何ぞ相見ゆるにこの晩きや。」。ここにおいて、上乃ち主父偃、徐楽、厳安を拝して郎中となす。 孝著 親孝行を理由に郎官とした。馮唐の例: 唐は孝著をもって、中郎、署長となり、文帝に事う。 良家子 良家に指定されていた家から従軍させ、武術に優れた者を選んで郎官にした。漢陽郡・隴西郡・安定郡・北地郡・上郡・西河郡の6郡の良家を特に六郡良家と言う。李広(隴西郡)の例: 而して広は良家子をもって従軍して胡を撃ち、善く騎射を用い、殺首虜多く、漢の中郎となる。 馮奉世(上党郡)の例: 武帝の末に至り、奉世は良家子をもって選せられ郎となる。 女子も良家子として女官に登用された。竇皇后(清河郡)の例: 竇太后、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫は良家子をもって入宮し太后に侍る。 この6郡は匈奴や羌などと国境を接した尚武の土地柄で、文帝は六郡良家から才能のある者を集めて上林苑で軍事演習を行った。武帝が期門と羽林を設立すると、六郡良家子が「善騎射」・「能騎射」を枕詞に人員を供給した。甘延寿(北地郡)の例: 少くして良家子の善く騎射すをもって羽林となる。投石抜距は等倫に絶し、甞みて羽林の亭楼を超踰す。これによりて遷りて郎となる。弁を試みて期門となるは、材力愛幸さるをもってす。 期門・羽林の人員は後に改称されて比三百石の虎賁郎・羽林郎となった。しかし、比三百石の勅任官でも郎官との扱いに格差があり、例えば、比六百石の羽林左監・右監は郎官から選ばれ、原則的に羽林郎からは羽林監の下の書記までしか上がれなかった。その例外として、戦功によって羽林郎から秩石が同じ郎中へ昇進する場合がある。董卓(隴西郡)の例: 桓帝の末、六郡良家子をもって羽林郎となる。中郎将張奐に従い軍司馬となり、共に漢陽の叛羌を撃ち、これを破る。郎中を拝し、絹九千匹を賜う。
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