人柄と後世の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 06:23 UTC 版)
「クリスティーナ (スウェーデン女王)」の記事における「人柄と後世の評価」の解説
ヴォルテールがたびたびクリスティーナを自著で扱い、「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである。新教徒は彼女を苦しめた。ルターを信じないかぎりすべての徳は無意味であるとさえ考えられる有様である。一個の自由思想家にすぎない女性の改宗を促すことは教皇にとって易々たる仕事であったに違いない」と賞賛している(『カール12世』より)。実際、ラテン語・フランス語・スペイン語に通じ、文学・芸術への造詣の深い才媛としてヨーロッパで有名であった。 しかしフォンテーヌブローで家臣のモナルジテ(イタリア語版)を殺させたことについては、「王位を賭して自身の哲学を実践しながら、この残忍かつ破廉恥な行為で、せっかくの哲学を台無しにしてしまった」と非難をしている(『ルイ14世の世紀』より)。 また、クリスティーナはフランスの哲学者であり数学者ルネ・デカルトに心酔し、1649年の年始より3度に渡り親書を送り、同年4月にはスウェーデン海軍提督に軍艦をもって迎え行かせ、10月にデカルトはストックホルムを訪れている。クリスティーナは政務の傍ら1650年1月より早朝5時からデカルトの講義を受けて師事した。しかしながら、デカルトは当時53歳と当時としては高齢であり、フランスでは朝寝の習慣があったため、彼には辛い日々であったとされる。真冬のスウェーデンの厳寒さと無理がたたり、クリスティーナへの講義を始めた翌月2月、デカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、結果的に死去させてしまった。 イギリスの歴史家ヴェロニカ・ウェッジウッド(英語版)は即位直後のクリスティーナを「名ばかりの人ではないにしろ、媚びへつらいに甘く、騙されやすかったが、強情でかつ知性をもった若人だった。あの高名な父の娘として、彼女は状況に対処する勇気を持ち、(彼女の老臣たちより)もっと大胆に、あっさりと、父の政策のセンチメンタルな墨守を放棄することができた」と評している。 クリスティーナが生まれた際、男児誕生の一時誤報が流れたこともあり、両性具有であったとされる説も支持されていたが、1943年に石棺を移動して開き、銀の仮面と王冠は発見され、プロケード地の埋葬服はほとんどなくなっていた。1965年12月の再調査によると遺体は明らかに女性のものであり、この説はクリスティーナが深い声の持ち主で男性用の靴を愛用していたこと、また結婚にあまり興味がなかったことによる根拠のない噂話に過ぎないと判断された。 幼少の頃から美しいドレスやリボン等の装飾品や着飾ることに関心がなく、洋服へのインクの付着やほつれを注意されると「そういうことは他にすることが無い者に言えば良い」と答え、頓着がなかった。
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