人柄と画風 ―器用なるおのこ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:21 UTC 版)
「呉春」の記事における「人柄と画風 ―器用なるおのこ」の解説
呉春は社交を好む粋な都会人で、絵の他にも俳諧、書、篆刻、謡曲、横笛、蹴鞠にも堪能だった。呉春の池田時代、蕪村が弟子に送った手紙では、呉春のことを「篤実な君子」で、絵と俳諧は勿論、横笛なども上手い「器用なるおのこ」で、特に「画は愚老(蕪村)も恐るるばかりの若者」だと記している。友人の上田秋成によると、応挙は衣食住に全く無頓着だったが、呉春は「食い物が解らない者は、何も上手になれぬ」と語っていたと言う。実際、池田時代は地元の食通たちと「一菜会」という名で会食会をたびたび開き、その献立も残っている。そうした気質が絵にも反映され、応挙及び円山派の写生画が、時に生真面目すぎて窮屈な感じを与えるのに対し、呉春の写生画には平明で都会的な洒脱な要素が加味されている。こうした点が、当時の人々に一層親しく感じられ、呉春の四条派が円山派から独立した画派を形成できた理由であろう。頼山陽は「京都の画風は、応挙において一変し、呉春において再変した」と評している(『雲烟略伝』)。後に師の応挙と合わせて円山・四条派と呼称され、近現代にまで連なる京都日本画壇の遠祖となった。
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