人柄と論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:04 UTC 版)
特に晩年のフックは短気で気位が高く、知的論争で相手を不快にさせる傾向があった。それでもウォドム・カレッジでの王党派の仲間たち、特にクリストファー・レンとは常に仲がよかった。彼の名声は死後に低下しているが、その原因は一般にアイザック・ニュートンとの間の確執にあったとされている。ヘンリー・オルデンバーグとの時計の機構の発明者がどちらかという論争もよく知られている。ニュートンはフックの死後に王立協会会長となり、フックの業績を覆い隠そうと様々なことを行った。唯一の肖像画を破棄したのもその一例である。レンの息子がレンの生涯について本を書いているが、レンの業績を誇張する傾向が見られ、フックは軽視されている。フックが再評価されるようになったのは20世紀に入ってからで、Robert Gunther や Margaret Espinasse の研究によるところが大きい。長く無名だったが、今では当時の最も重要な科学者の1人と認められている。 フックは暗号をつかってアイデアを隠すことがあった。王立協会の実験監督として、協会に送られてくる様々なアイデアを試し、後にそのアイデアは自分のものだと主張したという証拠がある。フックは極めて多忙だったため、自分のアイデアを特許化して事業を起こすといった暇がなかった。科学全体が大きく発展した時代であり、様々な場所で様々なアイデアが生まれていた。 それでもフックが創意に富み、大変な実験施設を作り上げ、様々な業績を残したことは事実である。重力の逆2乗法則を発見したというフックの主張については後述する。弾性、光学、気圧測定などの分野で多数の発明や工夫を行ったことは確かである。王立協会でのフックの論文はニュートンの時代に行方不明になっていたが最近発見された。これが新たな再評価に繋がると期待されている。 フックの性格の悪い面についての記述は多い。最初の伝記を書いた Richard Waller もその人柄について「卑劣で陰鬱で人を信用せず、嫉妬深い」と評している。この Waller の評価がその後2世紀に渡って影響を与え、不機嫌で自己中心的で非社交的だというフック像が定着することになった。例えば Arthur Berry はフックについて「当時の科学的発見のほとんどを自分の手柄だと主張した」としている。Sullivan はフックがニュートンとのやり取りにおいて「明らかに無法」であり、「虚栄心」の持ち主だったと記している。Manuel は「怒りっぽく、嫉妬深く、執念深い」と記している。More は「シニカルで毒舌」だったとしている。Andrade はやや同情的だがそれでも「気難しく、疑い深く短気」だとしている。 1935年、フックの日記が出版され、フックの別の面が明らかになり、特に Espinasse が詳細に研究している。彼女は「不機嫌で嫉妬深い隠遁者というフック像は完全に間違いだ」としている。フックは時計職人の トーマス・トンピオン や機器製造者の Christopher Cocks (Cox) といった名の知れた職人とよくやり取りしている。また、クリストファー・レンやジョン・オーブリーとは終生親友だった。また、日記にはロバート・ボイルと頻繁に会い、お茶や夕食を共にしていることが記されていた。実験助手のハリー・ハントともよくお茶を飲んでいる。ハントの姪やいとこを自宅に招いて数学を教えてもいる。 フックは、ワイト島、オックスフォード、ロンドンで人生の大半を過ごした。結婚はしなかったが、恋愛がまったくなかったわけではないことが日記から判明している。1703年3月3日、ロンドンで死去。死後、グレシャム大学の自室にかなりの大金を溜め込んでいることがわかった。St Helen's Bishopsgate に埋葬されたが、墓の正確な位置はわかっていない。
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