人柄と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/28 05:59 UTC 版)
父・隆国は藤原頼通の側近として東宮時代の後三条天皇に甚だ無礼であった。そのため、即位後の後三条天皇は隆国の子息達を罪科に当てようと考えていた。しかし、長男・隆俊や次男・隆綱は共にその才能を愛され、天皇の近習として重用された。そこで天皇は三男の俊明にこそ鬱憤を晴らそうとしたが、内裏の火災の際の豪気な行動を高く買われ、その才能を愛でてかえって昇進させたという。 後三条天皇崩御後も、引き続きその息子の白河天皇の近習として重用され、退位後の院別当としても厚く信頼され、また剛直な人柄は廟堂に重きをなした。白河院政下、愛憎の別が激しく身分秩序を無視して気ままの叙位除目を行った上皇をたびたび諌めた。特に名高い逸話として以下のようなものがある。 嘉承2年(1107年)、5歳の鳥羽天皇が即位した際、天皇の外伯父・藤原公実が自ら摂政就任を主張し、公実と従兄弟にあたる白河院は悩んだ。だが、俊明は頼通・師実が摂関として廟堂に尽くすところ大きく、その嫡流である忠実を抑えて、公季以後、5代傍流であり続けた公実を摂関に就かせるのは不当であると言い切り、白河院を思い直らせたという。以後、天皇との外戚関係の有無にかかわらず御堂流の正嫡が摂関を継承する制度が確立した。これにより摂関家嫡流が危機から救われた一方、外戚と摂関の分離が常態となることで摂関政治の再興は難しくなった。
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人柄と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:03 UTC 版)
勝義は非常に真面目で几帳面、筆まめだった。朝に近所にある正覚寺の稲荷社に詣でる以外外出せず、休みは正月と葵祭の2日だけで、倦むこと無く制作に打ち込んだという。制作は平行して複数の作品を作ることが多く、同時に同じ作品を作るのも珍しくない。制作期間は、半年から1年弱程が多いが、大作には数年を要したようだ。作品が完成すると、床の間に菊池容斎が描いた稲荷図の三幅対を掛け、その前に作品を飾り、「今日は棟上げじゃ」と言って、懇意の人や弟子たちを集めて酒を振舞うのが家風となっていた。杯をあげながら正勝は、「私の作品が将来、依頼した人に損をかけぬように、と思って神様にこうやってお祈りするのじゃ」と、いつも周囲の者に語っていたという。 またある時、成金から全て金の煙管を作ってくれと頼まれた。正勝は「金の煙管なんか聞いた事もない」と断ったが、成金は「どうしても作ってくれ」と言い残して去っていった。それから勝義は純金で煙管を作って渡すと、依頼主は大層喜んだ。その直後、勝義は「ちょっとその煙管を私に貸して下さい。これに少し彫り物をして差し上げます」と言って持ち帰り、今度はその金の煙管全体に鉄を巻いてしまった。そして、その上からすっと草花を彫ると、下から金の彫り物が燦然と輝いた。数日後、依頼者に「金とはこうして使うものです」と言って返すと、その成金は大いに感じ入ったという。
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人柄と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 16:00 UTC 版)
フォーキオンはアテナイが軍事的に弱体化していたことを臆することなくアテナイ市民に指摘し続け、ボイオティアとの国境紛争もカイロネイアの戦いもラミア戦争も思いとどまらせようとした。政治家としてのフォーキオンは断固として買収されないという点で、アテネでは異例の存在だった。「高士 Ho clestos」というのが彼のあだ名であり、一人のアテナイ人も彼が笑ったり泣いたりしたところを見たことがなかったという。自分を軍人として育ててくれたカブリアスへの恩義のため、カブリアスの息子クテシッポスが軽薄でどうしようもない奴と知りながら面倒を見てやっていた。自負の念に満ち、その処刑に臨んでも嘆いている仲間に向かって「君はフォーキオンといっしょに死ねて嬉しいと思わないのか?」と語りかけたという。
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