池田時代とは? わかりやすく解説

池田時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:21 UTC 版)

呉春」の記事における「池田時代」の解説

呉春は、金座勤めていた時、嶋原名妓・雛路を身請けし妻としていたが、天明元年1781年3月単身里帰り途中海難事故遭い妻を、8月には父を相次いで失う。傷心癒す為か剃髪し蕪村勧めで、パトロンであった蕪村門下商人・川田田福を頼り、しばらく現在の大阪府池田市転地療養する。翌年正月、この地の古名である「呉服(くれは)の里」で新春過ごした事に因み呉春、伯望の画号を名乗るうになる(この縁で、池田市には今でも呉春と言う銘柄地酒がある)。ただし、「月渓」の名は俳号としては終生用い続け俳画俳諧では「月渓」を名乗っている。これは、師蕪村が画号を「春星」「謝寅」、俳号を「蕪村」と使い分けていたことに倣っていると考えられるこの頃から天明6年5月帰洛円山派風の作品を描くまでを「池田時代」、または天明年間にほぼ重なる事から「天明時代」という。蕪村風の筆法で力強い画風人物画花鳥画残し俳画にも優れた作品が多い。呉春俳画には、自句を記したものは少なく蕪村先人の句に合わせて画を添えることが多い。この点、自画と自句を合わせて自己表現試みていた蕪村とは対称的である。 天明3年1783年蕪村重病伏せると、呉春は京に戻る。兄弟子紀楳亭と共に献身的に看病するけれども、同年末に蕪村亡くなってしまう。師の死後も、自ら挿図描いて遺作句集新花摘』を出版し池田と京を往復し蕪村家族世話をする。しかし、この頃から次第師匠とは対照的な画風である円山応挙接近していく。天明7年1787年)頃から、おそらく応挙紹介で、真仁法親王サロン出入し始め法親王側近絵師となる。同年応挙棟梁とする6人の絵師中に入り一回目の但馬国大乗寺襖絵制作参加。この時の作「群山露頂図」は、蕪村の「峨嵋露頂図」に倣った作品で、関係文書にも「蕪村高弟月渓」と記されており、未だ蕪村を慕う呉春心情窺わせる天明6年1786年)から2年10回にわたって池田酒造家が中心となって蕪村の「屏風講」に倣ってか「掛物講」が催されている。これは講の参加者が1両ずつ出しあって代金募りくじ引き呉春の絵を得る仕組みである。その中には後の写生時代につながる作品見られ、この講が画業転換期呉春支えたと言える

※この「池田時代」の解説は、「呉春」の解説の一部です。
「池田時代」を含む「呉春」の記事については、「呉春」の概要を参照ください。

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