池田と大蔵省支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:40 UTC 版)
「池田勇人内閣の政策」の記事における「池田と大蔵省支配」の解説
池田の積極財政路線は、その官歴が大蔵省主計局ではなく、主税局を出発点としていることと無関係でない。予算編成に強大な権限を有する主計局が財政支出の抑制へと動きやすいのとは対照的に、主税局出身の池田は経済成長に応じた財政拡大方針を執ることを志向した。 池田は1947年に石橋湛山大蔵大臣の下で大蔵次官となり、石橋に協力して戦後日本の経済再建の実務を担当し、石橋の経済運営から多くを学んだ。また池田は次官になって以来、常に大蔵省との間に緊密な関係を保持し、大蔵省を権力基盤として鳩山内閣の経済運営にも影響力を持った。池田は1956年に石橋内閣で蔵相に抜擢された時に「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出しており、これは池田内閣の「所得倍増計画」と政策上の共通点があった。池田は高度経済政策を阻止する財政保守派を排除し、且つ大蔵省を自分自身の政治的野心への協力者に組み込むために、大幅な人事の入れ替えを行った。池田の積極財政は池田個人の政策に止まらず、大蔵省首脳人事を通じて継承され、森永貞一郎、石野信一らによる大蔵省首脳人事は1970年代まで池田の影響力を保持する形で行われた。戦後の首相で大蔵・財務事務次官を経た後、首相まで上り詰めたのは、今なお池田唯一人のため、大蔵省に於ける池田の影響力は強く長く続いたのである。石野も池田の蔵相時代の主計局長-事務次官であり、池田の政策ブレーンの一人であった。これが第2次池田内閣 (第2次改造)の田中角栄蔵相に受け継がれ、党の要求を反映した積極財政が大蔵省の伝統的な緊縮財政を排して推進されていくことになったのである。 池田内閣の時代、日本銀行は消極財政に舵を切ろうとし、金利引き上げを何度も求め、日銀法改正による中央銀行の独立を要求したが、池田は断固拒否し主張を押さえ込んだ。結果、日本の景気は萎縮することなく、高度経済成長は順調に実現した。池田時代の日銀総裁は大蔵省の同期・山際正道であり、最終的には池田と山際は歩調を合わせた。大蔵省が「官庁の中の官庁」というパワーを確立したのは池田政権の時代である。池田内閣時代の日本は、政府与党、大蔵省、日銀、財界が一体となって国を動かした。
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