池田と証券業界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:40 UTC 版)
「池田勇人内閣の政策」の記事における「池田と証券業界」の解説
証券業界は1950年半ば頃までは、さほど政界と人脈的な繋がりを有していなかったが、池田が証券業界の要望を受けて戦後の投資信託(投信)を復活させて株式投資ブームが興った頃から池田に期待し、業界の政治献金を池田に集中させた。当時は証券業界はまだ未成熟で、業界を指導する政府側(大蔵省)の当時の「証券取引法」は緩く、証券業界のトラブルが絶えなかった。これを受け担当の大蔵省内部部局である「理財局証券部」も組織を充実させていったが、規制は徹底を欠き、微温的な行政が続いた。これは池田の証券業界に対する姿勢が影響していたといわれる。 池田は積極経済政策を進める上で、それまでの内閣より一層証券市場の機能を重視した。それは間接金融に偏重していた金融システムを、資本市場の育成を図ることにより、直接金融の比率を高めることに意味があった。人脈的に見ても、池田あるいは宏池会は証券業界に近く、野村證券の奥村綱雄は京大の同窓でもあり、共に仕事は熱心だが、酒も遊びも大好きで兄弟にもまさる親しさだった。奥村は池田の回りにいろいろなグループを作ろうと努力し、池田が1952年から1956年の不遇時代には熱海の野村別邸を池田に提供するなど、物心両面で援助を続けた。また大平は岳父・鈴木三樹之助が創設した三木証券の専務を務めた時期がある。 池田は毎日の株価の高低に一喜一憂するほどの異常とも言えるほど株好きだった。1963年11月にも、ジョン・F・ケネディ大統領葬儀のために訪米していたとき、夏から急落していた株価を気にして、留守を預かる黒金泰美官房長官に問い合わせた。それを黒金がうっかり新聞記者に漏らし、池田の秘書官・伊藤はこれが報道されると国民の池田離れが急速に進むのではないかと懸念した。このエピソードは大蔵省で知らぬ者がいないほどであった。また池田がアメリカに行ってる時、三木武夫に電話をかけてきて「株の値は?」などと聞いたりするので、経済に疎い三木は、なんで株の値を聞く必要があるのか分からず、野村證券の奥村ら、池田を囲む財界人の勉強会に誘われて参加し必死に勉強したが、分からないことばかりで、子供のようだったというエピソードもある。池田は株式市況こそが日本経済のダイナミクスを表すものと信じて疑わなかった。池田には、市場の需給関係によってだけでなく、人為的に操作された株価の形成であっても、それが上昇している限り許容できるものであったといわれる。しかし証券業界の混乱が重なるにつれて、大蔵省内で「証券局」を設置すべきという声が上がり、池田の首相在任中の1964年6月、田中角栄蔵相の意向を反映して大蔵省の「理財局証券部」を改め「証券局」が設置された。田中も池田同様、株に強い関心があったといわれる。 初代局長には池田と繋がりのある松井直行が就いた。大蔵省の証券行政の強化・充実がもたらされたのはこの時からで、1965年に「証券取引法」が改正され、証券業はそれまでの登録制から会社の免許制に移行、大蔵省が証券業界を監督することになった。当時あった484社のうち209社が潰れ、新たに275社に免許が与えられた。厳しい審査を経た会社は大蔵省がしっかりと守ることになった。
※この「池田と証券業界」の解説は、「池田勇人内閣の政策」の解説の一部です。
「池田と証券業界」を含む「池田勇人内閣の政策」の記事については、「池田勇人内閣の政策」の概要を参照ください。
- 池田と証券業界のページへのリンク