池田との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:59 UTC 版)
当初の伊藤は経済記者であり、商工省担当時代に、1949年の衆院選に出馬していた池田勇人の自宅に押しかけて面識を得る。当選後の池田が大蔵大臣になると伊藤も大蔵省担当となるが、この時期、記者会見以外で記者に情報を流させない池田と記者団との関係は険悪で、伊藤との関係も例外ではなかった。1951年に伊藤は池田の属する吉田自由党担当の政治記者となるが、この頃になると池田は記者との関係構築を重視し、中でも伊藤に重要な情報を与えるようになった。伊藤は1954年元旦に政治部デスクとなるが、この年の暮れに吉田自由党は下野して池田も干された状態になり、伊藤は1956年に福岡本社の整理部への転属となる。政治記者に復帰する見通しがつかなかった伊藤は退社し、1958年4月に宏池会職員という身分で池田の私設秘書のような形となる。同年6月に池田が第2次岸内閣の無任所大臣になると、伊藤は大臣秘書官となる。1960年に池田が総理大臣に就任すると首席秘書官となる。伊藤はスピーチライターとして池田の演説の草稿を執筆する。 伊藤の起草として有名なものには同年の浅沼社会党委員長刺殺事件における衆議院での追悼演説がある。「議場がシーンとしてしまうような追悼文」という要望を池田から受けた伊藤は、浅沼について急遽資料を集めたり社会党担当の新聞記者に訊くなどし、詩の部分は日本経済新聞の自伝連載コーナー『私の履歴書』の浅沼の回から引用した。このような演説で詩を読み上げることは前例がないとして議院運営委員会で難色を示されたが、池田は詩を2回読み上げる予定を1回にして押しきった。この原稿の政治効果は池田に「5億円か10億円の価値がある」と言わしめるものだった。 浅沼事件への対応で伊藤は池田から全幅の信頼を得たと述べている。以降、様々なことにアドバイスするようになり、組閣草案の作成もしている。また池田の海外訪問にたびたび随行している。 池田退陣後、大平正芳からの誘いがあったが、池田は回想録執筆を手伝わせるといって伊藤を手元に留め、前尾繁三郎に指図して伊藤に宏池会事務局長の肩書を与えた。結局、池田は生存中に回想録を著述できなかったが、池田の死後の1966年に伊藤は『池田勇人 その生と死』を出版した。この書物は池田政権の中枢にいた人物による記録として、今日に至るまで池田政権を論じる際欠かせない資料となっている。
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