池田氏による鳥取城下の町作り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/25 14:34 UTC 版)
「袋川」の記事における「池田氏による鳥取城下の町作り」の解説
江戸時代になり、池田長吉つづいて池田光政が鳥取城に入ると、袋川には9つの惣門が設けられ、鳥取城の総構えとされた。特に池田光政は鳥取城および鳥取城下の大改造を行った。城下町の周囲にあたる従来の袋川の外側に新たな河道を掘削し、そちらを袋川として、袋川より内側を鳥取城下とした。この時に造られた川が、市街を流れている袋川(旧袋川)である。新たに造られた袋川の土手には竹が植えられ、有事の際には城下に迫る外敵の視線を遮り、敵の攻撃を防ぐ役割を持っていた。なお、従来の袋川は『薬研堀』と改称され、薬研堀の内側が鳥取城の郭内とされて侍屋敷が建てられた。 明治になって川土手の竹藪は苅り払われ、日露戦争の勝利や大正天皇の御大典を記念して桜が植えられ、市民の憩いの場となった。また明治以降は鳥取市内にも紡績工場が建てられ、燃料となる石炭や材木を運ぶ運搬船が川を行き来するようになったり、行楽のための屋形船や市民の足としてのポンポン蒸気船なども見られたりするようになった。
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