長期政権とその背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:55 UTC 版)
政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの佐藤」と呼ばれた手堅く無難な選択を行う守りの政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、5度の国政選挙と3度の総裁選を乗り越え、日本政治史にもまれな長期連続政権となった。 この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、就任直後の証券不況を乗り越えて以降は空前の好景気となり(いざなぎ景気)、皮肉にも池田時代以上に経済は拡大した。 さらに自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去ったという事情がある。同じ吉田門下の池田勇人が病に倒れたことによって佐藤は政権の座についたが、その池田はまもなく病没(1965年8月)。大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した。特に直前の内閣改造を巡って関係が悪化し閣外に去っていた実力者・河野は有力な非主流派となり得ただけに、その死は極めて大きかった。 このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮澤喜一、竹下登たちを政府・党の要職につけて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術で政権の求心力を維持し続けた。また、情報収集能力が高く「早耳の佐藤」と呼ばれた。 また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といった、その後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案などによる野党懐柔がこのころに定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で、参議院自民党の実力者であった重宗雄三と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄や園田直らに強行採決を自ら指示することもあり、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定など与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術や議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ちなどで強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭するなど、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。 こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような経済成長の副作用の是正や、社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題や対中外交などで後手に回って批判を浴び、苦慮することが多かった。こうした佐藤長期政権への不満は、たとえば自民党の得票率が漸減の傾向にあったことや、全国各地で革新首長が誕生したことなどからも読み取れるが、保守政治の動揺が国政の場で顕在化するのは、ポスト佐藤の保革伯仲時代になってからである。 石原慎太郎は戦後最強の内閣に佐藤内閣を挙げている。「忘れてならないのは、敗戦で喪った小笠原と沖縄という領土を返還させた功績は歴代内閣で比類がない。強いからこそ長くやれるということもあるけど、あの人は物凄い二枚舌だったね、核の問題に関して。『持たず、つくらず、持ち込ませず』の非核三原則を言うから、僕は参議院であの人に楯突いたことがあるの。ところが彼はその裏で、実は若泉敬を使って、アメリカと核持ち込みの密約をむすんでいた。しかもそのとき、片一方でドイツと組んで核保有の議論をやろうとしていたんだ。凄いよ。岸さんも立派だったけれど、佐藤さんは寡黙なだけに凄味があったね。佐藤栄作は、見事な二枚舌を使って国家の大計を考えたんだ。日本人が核アレルギーというセンチメントで右往左往としているあの時代にね」 と述べている。
※この「長期政権とその背景」の解説は、「佐藤栄作」の解説の一部です。
「長期政権とその背景」を含む「佐藤栄作」の記事については、「佐藤栄作」の概要を参照ください。
- 長期政権とその背景のページへのリンク