長期政権と後継問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:39 UTC 版)
「ハーフィズ・アル=アサド」の記事における「長期政権と後継問題」の解説
バアス党の正統性やユーフラテス河の水資源利用をめぐり、隣国イラクとは対立関係にあった。このためイラン・イラク戦争ではアラブ諸国で唯一イランを支持し、イラクとの国境を閉鎖した。1990年の湾岸戦争ではイラクのクウェート侵攻を受けてイラクと国交を断絶し、イラン・イラク戦争ではイラクを支持したアメリカ合衆国やサウジアラビアとの関係を改善し、多国籍軍の一員としてサウジアラビアにも派兵した。当時のアメリカ国務長官ジェイムズ・ベイカーによれば、このシリアの決定にはアサドと個人的に交流があったエジプトのムバラク大統領が関わっていたとされる。1990年代にはマドリードで行われた中東和平会議に参加するなどイスラエルとの交渉を開始するが、ゴラン高原の全面返還という原則を譲らず、状況の打開を見出せないまま交渉は一度の中断を挟んで停滞した。 1994年には、長男バースィルを交通事故で失い、後継者問題が不安定化したことで大きな打撃を被ったが、ロンドンで医師として生活していた次男バッシャールを急遽呼び寄せて後継者としての帝王教育を施した。それでも後継者としてのバッシャールに対する不安感は拭えなかったため、ロンドン留学で身につけた学歴や開かれた国際感覚といった息子の「博識」さを特徴づける試みとして、父ハーフィズは情報科学協会の会長にバッシャールを就任させた。若手官僚の育成やインターネットの導入など、バッシャールをシリアの近代化や若い世代の旗手として位置付けようとしたほか、彼を軍医としてシリア軍に勤務させるなどバッシャール自身にも高級軍人としての経験や実績を積ませようとした。 また、バッシャールの政治手腕を疑問視あるいは後継指名に反発していたアリー・ハイダル前特殊部隊司令官を逮捕し、ヒクマト・アル=シハービー軍参謀総長とムハンマド・フーリー空軍司令官を退役させ、ムハンマド・ナースィーフ総合情報部次長兼内務部長とアリー・ドゥーバ軍事情報部長を降格するなど、今までハーフィズ・アサド体制を支えてきた古参軍幹部や情報将校を粛清する政策を進め、政権の世襲化と息子の軍・治安機関部門における基盤強化を図った。 持病の心臓病を抱えながら晩年も精力的に政務をこなしていたが、2000年6月10日にレバノンのサリーム・アル=フッス(英語版)首相との電話会談中に心臓発作で死去。後継大統領には予定通り次男のバッシャールが就任した。
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