二つのインターナショナル
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「第一インターナショナル」の記事における「二つのインターナショナル」の解説
その後、最初の国際的政治団体にして労働者組織であるIWAはアナーキストによる執拗な解散運動に直面する。 バクーニン派は、中央評議会の「政治活動への積極参加」条項に猛反発して独自見解を提唱し、分裂運動を画策したため、ハーグ大会で除名処分を受けたが、彼らは当然処分を承服したりはしなかった。そこで、彼らはIWA本部のニューヨーク移転を機に、中央決定による組織運営を否認し、連絡と統計に基づく自由な連合体を作ろうと試み、独自のインターナショナル組織を作り始める。1872年9月15日バクーニン派は15名ほどの代表者がIWAの名を流用してスイスのサン・ティミエ(英語版)で大会を開催した。そして「社会民主同盟」から継承した「連合」の原理と政治活動の拒絶が新組織の綱領として掲げて新組織を樹立する。ここではこのとき発足したバクーニン派の新組織をアナーキスト・インターナショナル(英語版)と呼称する。この新組織は加盟団体を募ったが、参加を表明した連合はベルギーとオランダとイギリスの一部支部に留まった。大半の地方支部は元のIWAに残留を表明した。 無政府主義は社会主義の双子の兄弟と言える。アナーキズムは、革命の自然発生性を強調し、組織の中央統制に反対し、集団よりも個人の自由を価値として、暴力革命による急激な社会変革を求め、緩やかな「連合」による社会の統合を目指していた。その理想像はマルクスが目指した共産主義社会と何一つ変わるところはない。 しかし、理想を共有していたものの無政府主義と社会主義には方法論において決定的な違いがあった。マルクスの社会主義は階級闘争が長引くこと、革命の機会は容易には訪れないという現実感覚、大衆の支持を背景に権力を革命あるいは選挙で政権を掌握してプロレタリアート独裁を確立すること、議席を得て社会立法を進め階級格差を是正し、工業および農業、そして商業の均衡発展の道を模索するという国家ヴィジョンがあった。こうした段階を追って共産主義の理念を実現させるという現実的な立場をとっていた。 バクーニンらの無政府主義は反権力思想と自己完結型の共同体思想がもつ魅力によって、南欧の下層労働者やロシア、南米の貧農層を取り込んでいった。19世紀当時は重税、貧困、疫病、言論統制、官憲の取り締まり、医療・福祉・教育の欠如といった苦痛と圧政が是とされた反動的な専制国家の時代であった。とりわけ、工業化は遅れた諸地域では無政府主義とその暴力的方法論が受け入れられていった。例外的に農業国でもあり個人を重んじ自由を尊重するアメリカやフランスでも支持を集めた。一方、先発工業国のドイツ、これに遅れてフランスが、そして、大不況期を経験したイギリスなど労働運動の歴史的中核国ではマルクス主義の影響力が次第に強まっていった。「アナーキスト・インターナショナル」は数度の年次大会を開催し、スペインの革命やイタリアで多くの暴動を画策したが失敗に終わる。また、バクーニンが世を去ってその後の発展の糸口と反乱工作の機会を失ってしまう。19世紀末にイギリス、フランス、ドイツ、アメリカをはじめ各国が社会立法に力を注いで圧政を捨てていくにつれて、無政府主義はしだいに個人革命家のテロリズムの世界へと追いやられて衰退していく。現実路線に即して、内部統制が強い組織を持った社会主義党を作り上げ、国家権力の掌握に力を注ぐ道を選んだことにより、マルクス主義は時代の選別に耐えて生き残ったのである。
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