予備免許申請
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こうして、1950年9月、電波監理委員会(この年6月1日に電波庁の廃止に伴い、総理府の外局として設置)は全国90社以上から寄せられた民間放送ラジオの申請から、厳正な審査により42社に絞り本免許交付に向けた利害対象者として選定し、姫路市営放送もこの1つに含められた。その後同12月1日から制定された「放送局開設の根本的基準」に沿い、開局へ向けた各種書類を提出。1951年1月、電波監理委員の岡咲恕が同局を視察に訪れ、「商業色が強くなり過ぎないことや、放送内容の方よりに対しての注意」などを促した。また出力を当初300Wとして、周辺市町村も放送エリアに加えようとしたが、岡咲は「姫路市民の福祉増進に徹するように」ということで、出力を50Wに制限するように促した。しかし、この段階で、予算総額は当初計画比10倍以上の3000万円にまで膨れ上がり、一部市民や市議会からは競馬、競輪中継の撤回など、異議を唱えた人までいたといわれている。 1951年4月21日電波監理委員会は実際に申請があった34の放送局から、16社に対して第1次放送予備免許交付を承認したが、姫路市営放送は予備免許交付を凍結される。しかし、すでに周波数580kc(現・kHzと同義)と、コールサインのJODRの割り当てが確定していた。関西圏においては、大阪府を主たるサービスエリアとした広域圏放送が2局(朝日放送と毎日放送=開局時は新日本放送)、京都府と兵庫県にもそれぞれ府県域の放送として京都放送(法人登記上初代。のちの近畿放送を経て、現在は登記上2代目の京都放送となっている)とラジオ関西(当初は神戸放送)を割り当て、さらに姫路市の市域密着型放送局としての姫路市民放送を加えたサービスエリアが異なる5つの放送局を開局させる方向がこの時かたまっていた。 しかし、姫路市議会はこの計画を承認しなかったのと、電波監理委員会も地方自治体がコマーシャル放送をすべきか否かについて慎重を期するべきという意見があり、免許交付を凍結されたことから、電波監理委員のアメリカ視察の際、現地の状況を把握して最終的に判断することになった。このアメリカ視察にあたっては、PBSのデンバーの系列局である「ロッキーマウンテンラジオ放送協会」への視察も含まれ、地元の大学や医師会、法曹界などと提携して、住民の社会啓蒙を目的とした放送が行われており、これを見た委員たちも、姫路市民放送の予備免許認可の方向性を定めたとしている。こうして、電波監理委員会は1952年3月7日、姫路市営放送の予備免許交付を全会一致で可決し、開局に向けてのゴーサインが出た。 しかし、姫路市側は一旦免許交付が保留となった段階で、放送局開局へ向けた準備を中断させてしまい、1952年3月議会での提出を見送り、先に具体的な事業計画や関連条例を作成し、完成後に市議会に提出する方針を固めた。予備免許には6か月間の本免許取得に向けた猶予期間があるため、この期間中に市営放送の開局を実現させるために同市は最優先課題として挙げ、同7月に具体的な計画概要を固めた。 番組の編成についても、自治体運営という観点から、公共性の高いもの、例えば現地の学校との連携による教育番組・教養番組や、ローカル性のある報道番組・情報番組を中心として構成するとした。その一方で競馬・競輪の中継については、自治体運営の放送にはそぐわないとして言及されなかった。 また競馬・競輪の運営による財政的な負担が大きいことから、コスト削減の目的で、人員を当初の40人から半分以下の17人に削減。残りを市からの出向スタッフで補うとした。演奏所(スタジオ)も姫路市公会堂に設置し、送信所のアンテナも富士製鉄・広畑製鉄所から調達することにした。
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