中国攻め以前の織田・毛利関係
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「中国攻め」の記事における「中国攻め以前の織田・毛利関係」の解説
詳細は「野田城・福島城の戦い」を参照 織田信長と毛利氏の当主・毛利輝元は阿波を本拠とする三好氏に対する牽制の意味もあって、但馬や播磨・備前のあたりを互いの緩衝地帯として、たがいに友好関係を保持してきた。信長は、上洛以来瀬戸内海東部の制海権の掌握をめざし、それを阻む三好三人衆や石山本願寺とはしばしば戦ってきた(野田城・福島城の戦い)が、他方で瀬戸内海の西部海域を掌握していた毛利氏・小早川氏を敵にまわさないよう気を配ってきたのであった。しかし、一方で信長は天正3年(1575年)、大友氏・島津氏ら九州地方の諸大名を講和させて毛利氏の背後に圧力を加えようと企図し、関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に下向させている。 天正3年8月、信長は明智光秀・羽柴秀吉を先鋒に、自らも出陣して越前府中(福井県武生市)を攻めて越前一向一揆を壊滅させ、加賀能美郡・江沼郡も制圧して、9月に越前北庄(福井県福井市)に北庄城を築き、後事を柴田勝家に託した。これは、石山本願寺にとっては大きな痛手となった。そして、天正元年(1573年)に室町幕府最後の将軍足利義昭を京より追放し、越前を平定した後の信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的にも、経済的にも西国の平定となったのである。 越前制圧の直後、信長方の摂津有岡城(兵庫県伊丹市)主荒木村重は西播磨の豪族から人質をとり、謀反を起こした宇喜多直家と交戦中であった備前の浦上宗景を援助して宗景の居城天神山城(岡山県和気郡和気町)に兵糧を入れ援助したが、天正3年9月に宗景は直家に敗れて備前を追われた(天神山城の戦い)。浦上宗景の敗退によって毛利氏に与する宇喜多直家が備前の支配権を奪取し、これにより毛利勢力の東進による織田氏との直接の衝突が現実味を帯びた。信長は天正3年10月、播磨の旧守護家赤松氏の配下であった御着城(兵庫県姫路市)の小寺政職や、三木城(兵庫県三木市)の別所長治、龍野城(兵庫県たつの市)の赤松広英、直家によって失領した宗景らが上洛して信長に出仕した。 一方、山陰地方では信長が毛利方との約束に反して、それ以前から尼子勝久・山中幸盛(鹿介)らの挙兵をひそかに支援していたことから事態は転変を繰り返した。天正2年(1574年)に尼子勢が因幡で挙兵して、私都城(鳥取県八頭郡八頭町)、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)を攻めて鳥取城(鳥取市)の城主山名豊国に危険がせまったため、豊国の伯父で信長に取り立てられていた但馬の有子山城(兵庫県豊岡市)城主山名祐豊が豊国救援のため毛利方に走った。しかし、丹波の黒井城(兵庫県丹波市)城主の赤井直正(荻野直正)が但馬国内へ侵入したため、祐豊は再び信長方に転じた。 天正4年(1576年)2月、義昭は紀伊興国寺(和歌山県日高郡由良町)から毛利氏の支配する備後国鞆の浦(広島県福山市)に移った。これは、必ずしも毛利氏の歓迎するところではなかったが、義昭はさかんに輝元らに対し信長に敵対するよう働きかけた。義昭はそれ以前から征夷大将軍として御内書を出して各地の大名の糾合を呼びかけ、信長包囲網(第3次)の形成に努めた。その結果、長らく信長と対立していた本願寺や武田氏のみならず、備前国の宇喜多直家などがこれに参加した。 こうした動きは、信長傘下の諸勢力にも少なからざる動揺を与えた。信長は天正3年秋より光秀に命じて丹波攻めを本格的に開始し、光秀は丹波の国人のほとんどを味方につけて赤井忠家とその叔父である直正の立てこもる黒井城を包囲して兵糧攻めにして落城寸前にまで追いこんでいたが、天正4年初頭、突如として丹波国人の1人で八上城(兵庫県丹波篠山市)主波多野秀治が裏切り、光秀は総退却を余儀なくされた(第一次黒井城の戦い)。前後して、いったんは織田氏に与力した但馬の山名祐豊が天正3年末、またも信長に叛旗をひるがえした。
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