レンガ車庫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:32 UTC 版)
駅南側にはかつて、総煉瓦造りの車庫が設けられていた。この「糸魚川駅機関車庫1号」、通称「レンガ車庫(赤レンガ車庫)」は1912年(大正元年)12月に竣工したもので、延床面積は812m2を有した。 両妻壁と桁下すべてが純煉瓦造で、機関車・客車の2両編成が3列格納でき、出入口は三連アーチを描いていた。建設から90余年を経過してもなお筐体の損傷が少なく、且つ現役の施設として供用され続け、加えてかつて全国各地に所在した同様の車庫はほとんどが廃止・撤去されていることから、全国的にも極めて貴重な存在となっていた。しかし北陸新幹線の工事進捗に伴い、構内の一部を新幹線ホーム用地とする必要が生じ、JR西日本と鉄道・運輸機構では車庫の撤去について検討を開始した。 しかしレンガ車庫は前述のように歴史的価値が高いことから、駅舎改築後に新設される南口駅前広場へ曳家方式で移築し、ランドマークの一つとして活用することを目指して地元の有志などが保存運動を展開し、地元の建設会社などが中心となって「レンガ車庫基金実行委員会」を設立し募金活動なども行われた。糸魚川市ではこうした動きを受けてレンガ車庫の移築について検討を進めたが、曳家による移築には3億円以上の費用が必要なことから、糸魚川市長(当時)の米田徹は2009年(平成21年)11月10日「曳家移築は不可能」との最終的な判断を下し計画の正式断念を発表した上で、部材の切り取り保存について引き続きJR西日本側と協議する意向を示した。 そして協議の結果「事業主体を市とすること」「切り取り保存の費用は市が負担すること」「切り取り保存工事が新幹線建設に支障を及ぼさないこと」の3点を条件に、JR西日本が市から工事を受託して計116 m2分の壁面を切り取り、市に無償譲渡することで合意に至り、米田は2010年(平成22年)2月25日の定例記者会見で、車庫西側の列車出入口全面と南側の壁面の一部を切り取り保存する方針を正式に表明し、新年度予算案に解体工事費1億円を盛り込んだ。こうしてレンガ車庫は同年3月のダイヤ改正をもって用途廃止となり、3月21日にJR西日本金沢支社主催の記念イベント「さよならコンサート」が開催された後に閉鎖され、4月中旬に切り取り保存の工程を実施した後、残存部は解体撤去された。なお撤去費用そのものは鉄道・運輸機構が全額を負担し、解体された煉瓦やレールなどの構造物はJR西日本から市に譲渡され、市ではこれらを後述の糸魚川市立糸魚川小学校敷地内のポケットパークの整備に際し再利用したほか、一部は記念品として加工のうえ、鉄道ファンや市民に向けて販売した。 この出入口面の外壁はアルプス口駅前広場のデザインに組み込まれる形で駅舎正面での復元再築が決まり、併せてアルプス口駅舎1階には前掲の「糸魚川ジオステーション ジオパル」の開設が決定、かつて大糸線を走行していたキハ52形気動車が静態保存されることになり、市に無償譲渡された同車両は廃車後に補修を受けた上で金沢総合車両所で屋内にて保管された後、アルプス口駅舎の建設進捗に伴い2014年(平成26年)11月26日に搬入された。 またレンガ車庫基金は部分保存という形で当初の目的を果たし、2014年春までに全国から約150万円を集めて募金活動を終了した。集まった基金はレンガ車庫の歴史や魅力を発信する映像ソフトの制作等に活用する目的で同年4月7日に市へ寄贈され、米田は「駅の魅力が高められるよう総合的な観点で検討し、行政としてできる範囲で生かしたい」との意向を明らかにした。 駅前広場に復元再築されたモニュメントは、裏面に設置された鉄骨の支柱によって自立しており、基礎部分や煉瓦の結着などに使用したコンクリートは駅西側に事業所を置く明星セメントが提供した。 移設前のレンガ車庫 一部移設後のレンガ車庫モニュメント
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