モロトフ外交
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「ヴャチェスラフ・モロトフ」の記事における「モロトフ外交」の解説
独ソ不可侵条約に調印するモロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン) 訪独してリッベントロップらドイツの首脳と会談するモロトフ(1940年11月) 日ソ中立条約の調印に立ち会うモロトフ(調印しているのは松岡洋右、そのすぐ後ろがスターリン。スターリンの左後にモロトフ) 1939年5月にナチス・ドイツとの融和の為にアドルフ・ヒトラーの歓心を買おうと企図したスターリンによって、ユダヤ人であった外務人民委員(外相)のマクシム・リトヴィノフが解任された。モロトフは外務人民委員を兼務し、以降10年に渡ってソビエト連邦における外交の長として活動することになる。一方でユダヤ人であった妻のポリーナも交通人民委員を解任されている。8月には独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させ、これに基づいた9月のポーランド侵攻は第二次世界大戦の口火を切った。この協定にはポーランドの分割とバルト三国のソ連による併合を取り決めた秘密議定書が付属しており、モロトフはこれにもサインしている。また、ポーランド侵攻後に起きたポーランド軍将校の虐殺(カティンの森事件)には政治局の一員として賛成している。 1939年11月30日、カレリアの領有権をめぐってフィンランドとの冬戦争が勃発した。スターリンとモロトフは開戦に積極的であり、オットー・クーシネンを首班とするフィンランド民主共和国の樹立を目論んでいた。12月11日に国際連盟がフィンランドからの撤兵を求める最後通告を送ると、翌日にモロトフは拒否。12月14日、国際連盟総会でソ連の除名が決定された。 ソ連空軍は侵攻初日からヘルシンキを含むフィンランド各地の市街地を空爆した。フィンランド政府がこれに抗議すると、モロトフは「ソ連機は(民間人を攻撃しているのではなく)空からパンを投下しているのだ」と発言した。以後、フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾のことを「モロトフのパン籠」と呼ぶようになった。さらにフィンランド軍は、対戦車兵器として用いた火炎瓶に「モロトフ・カクテル」とあだ名をつけ、「パン」への「返礼」とした。冬戦争ではモスクワ講和条約によってフィンランドに領土割譲要求を呑ませることに成功し勝利したが、小国フィンランド相手に多大な損害を出し苦戦したソ連の威信は大いに傷つき、国際連盟からも追放された。 1940年11月にベルリンを訪問したモロトフは、ヒトラー及びリッベントロップ外相らと会談し、融和方針を確認した。11月13日にイギリス空軍による爆撃があった為防空壕に避難して会談を続けたが、リッベントロップが「イギリスの敗北は必至」と言ったところ、モロトフは「いま上空を飛んで爆弾を落としているのはどこの飛行機か」と応酬した。リッベントロップはやや面食らったがすぐに冷静さを取り戻し、日独伊三国同盟にソ連を加えて四国同盟にする計画を説明し始めたという。この提案にスターリンも含めて同意したが、ドイツの最終的な返答はバルバロッサ作戦であった。 1941年5月にスターリンに首相職を譲り、自らは外相専任となりソ連外交を指揮した。日本の松岡洋右外相と日ソ中立条約に調印する。6月22日にドイツ軍が侵攻し独ソ戦が勃発した。アナスタス・ミコヤンの回想によると、6月30日にラヴレンチー・ベリヤの提案でKGBが組織されることが決定した。ミコヤンが議長としてスターリンの名を挙げると、モロトフは「スターリンはここ2日ほど脱力状態にある」と説明したという。また、ベリヤの回想ではスターリンの不在時に国家防衛委員会の設立を提案したのはモロトフであるとしている。この時期、スターリンは独ソ戦勃発に動揺したため指導力が弱まり、ニコライ・ヴォズネセンスキーはモロトフに権力掌握を薦めたという。ミコヤンによるとスターリンの別荘を訪れたモロトフは「逮捕される表情」を示したという。 7月になるとスターリンは現場に復帰し、ソビエト連邦軍最高総司令官(ロシア語版)および国家防衛委員会議長となった。モロトフは国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐した。海外ではスターリンの忠実な部下として知られており、「モール」(ボスの情婦)のあだ名で呼ばれた。 戦時中から戦後にかけてアメリカ・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンと共にソ連の国益を十二分に実現し、冷戦期の共産圏の基礎を作った。
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