メインストリーム復帰とイメージ・コミックス: 1993–1998
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「アラン・ムーア」の記事における「メインストリーム復帰とイメージ・コミックス: 1993–1998」の解説
ムーアは1993年にメインストリーム・コミックに復帰して再びスーパーヒーロー作品を発表し始めた(同年、魔術師になると宣言した)。後年には、自身の脱構築的アプローチが低質なエピゴーネンを生み出したことに責任を感じ、コミックに「喜びと純真さ」を取り戻そうとしたのだと語っている。しかし衆目の見るところによると、前言を翻した理由には経済的なものもあった。個人資産を投入した出版社マッドラブは Big Numbers の挫折と共に活動を停止していた。ムーア夫妻ら3人の恋愛関係も数年しか続かなかった。フィリスとデボラは娘たちを連れて2人で新しい生活を始め、1980年代の作品で稼いだ財産のほとんどを持ち去っていった。 寄稿先のイメージ・コミックスは当時ブームの真最中だった。同社は暴力描写・女性の性的対象化といった作風、作画重視・マーケティング重視の方針で知られており、ムーアのような「文学的」コミックを称揚する批評家からは評価が低かった。しかしクリエイター主導で設立された新会社ということもあり、著作権や創作上の自由についての方針はムーアにとって賛同できるものだった。ムーアはまず10万ドル+印税という破格の報酬で『スポーン』第8号(1993年)のゲスト原作者を務め、キャリア初期のSF短編を思わせるブラックユーモアを見せた。同年にオリジナル作品『1963(英語版)』(作画リック・ヴィーチ、スティーヴン・ビセット)全6号が出た。60年代のマーベル・コミックス作品のパスティーシュで、後に一般的になるスタン・リーパロディの先駆けだったが、ムーア自身が生み出したシリアスでダークなスーパーヒーロー像の全盛期でもあり、こうした路線はファンの支持を得られなかった。ムーアは後にこう語っている。あのバカげた『1963』を書いた後で、私がいなかった間にコミック読者がどれほど変わったか気づいた。突然、読者の大半が読みたがっているのはページ全体がピンナップ風になったストーリー皆無のやつだと思えてきた。そこで、そういうマーケットに向けてまともな作品を書くことができるか純粋に試してみようと思った ムーアは13歳から15歳向けの、平均よりはましな作品の執筆を始めた。『スポーン』から派生した3つのミニシリーズ、『バイオレーター(英語版)』(1994年)、『バイオレーターvsバドロック(英語版)』(1995年)、『スポーン: ブラッド・フュード』(1995年)はその例である。これらの作品は評者によってD.R. & Quinch で鍛えた悪ガキ風のユーモアバカバカしいエクスプロイテーション・コミックでもスタイルを保っているとされることもあれば、[当時の読者には] ムーアがエッジをなくしたように見えたことだろうという評価もある。そうして収入を確保するかたわら、非商業的な『フロム・ヘル』と Lost Girls の執筆を続けた。本人の言によると交響楽団に所属しながら、週末にだけバブルガム・バンドで演奏するようなものだった。ムーアは長文で精緻な原作スクリプトを書くことで知られているが、この時期イメージに提供した原作は簡略なネーム形式のものだった。 1995年にはジム・リーの月刊シリーズ『WILDC.A.T.S(英語版)』の原作を任され、第21号から14号にわたって書き続けた。それまでの主人公チームが宇宙でストーリーを続けるのと並行して地球で新チームが結成されるという展開で、ランス・パーキンはまとまりのない凡作だと評している。ムーアはジム・リーに好感を持っていたため珍しくレギュラーシリーズを引き受けたのだが、自身でもその出来には満足しておらず、ファンの好みを推し量りすぎて新しいものを書けなかったと言っている。ある評者はムーアが自らの選択によって1980年代に体現していたポップなエネルギーを失ったと論じた。 次に請け負ったロブ・ライフェルド(英語版)の『スプリーム(英語版)』(1996年、第41号–)はスーパーマンから力をふるう快感だけを抜き出したようなキャラクターだった。ムーアはここで、キャリアの初期で手掛けたスーパーヒーロー作品のように徹底した再構築を行った。しかしリアリズムを強調する代わりに、『1963』で行ったことをさらに徹底して、1960年代のいわゆる「アメリカン・コミックスのシルバーエイジ(英語版)」期の牧歌的なスーパーマンをそっくり真似た。その上でメタな視点を取り入れ、アメリカのスーパーヒーロー神話への回帰と、当時のコミックシーンの批評を行ったのである。ムーア執筆期の『スプリーム』は内容と売上の両面で成功をおさめた。1997年には『スプリーム』と『フロム・ヘル』の両作によってアイズナー賞原作者部門を受賞した。エアーズはこれがムーアにとって商業性と作家性の両立を果たした象徴的な出来事だったと書いている。 その後ロブ・ライフェルドはイメージと袂を分かってオーサム・エンターテインメント(英語版)を起ち上げ、イメージ・ユニバースから引き揚げた自分のキャラクターを使って新しい世界設定を作るようムーアに依頼した。ムーアは素朴なゴールデンエイジ(英語版)(1930–50年代)に始まって1990年代当時へと至る歴史を後付けで作り、メタなストーリーによってオーサムの作風が生まれた理由を批評的に描き出した。全3号のミニシリーズ『ジャッジメント・デイ(英語版)』(1997–1998年)で新しいオーサム・ユニバースの基礎が形作られ、『グローリー』(1999年)や『ヤングブラッド(英語版)』(1998年)が続いた。しかしイメージの傘から抜け出たオーサムの業績は悪化し、刊行の遅れや中止が相次いだ。ムーアによるとライフェルドの言動は信頼がおけず、仕事相手として評価できなかった。イメージ・コミックス共同創立者の多くも(ジム・リーやジム・ヴァレンティノ(英語版)を除いて)同様だった。
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