マロネ(2等寝台車)時代
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「国鉄マロネ40形客車」の記事における「マロネ(2等寝台車)時代」の解説
旧1等の冷房付寝台車は、個室が2等A寝台、開放室が2等B寝台となった。従って両方を併設したマロネ40形は2等A・B寝台車、開放室のみのマロネ41形は2等B寝台車となる。 進駐軍が接収していた優等寝台車の多くは1953年頃までに日本側に返還されたが、マロネ40・41形およびコンパートメント式2等C寝台車で1951年製造のスロネ30形を除けば、1928年~1939年に製造された古い3軸ボギー車がほとんどであった。これら、老朽化した戦前製の2等寝台車はサービス上問題が多く、抜本的な対策が求められた。 その中で車齢も比較的新しく、設備も良く数もそれなりに揃ったマロネ40・41形は、最上等の存在であった。東海道・山陽本線の代表的な急行列車に連結され九州にも直通した。 1956年11月に運転を開始した戦後初の夜行特急列車である東京 - 博多間特急「あさかぜ」にもマロネ40形を連結。1957年10月に運転を開始した日本で最初の本格的な寝台列車と言える東京 - 大阪間急行「彗星」には1列車あたり6両もの2等寝台車が連結されていたが、そのうち4両がマロネ40・41形であった。 1957年には10系客車の食堂車としてオシ17形が製造された。床下にディーゼル発電機を搭載し、発電された電力によって電動式の冷房装置を駆動する方式を初めて採用した。メンテナンスや信頼性の優位性から、車軸駆動冷房方式は以後新規採用されなくなった。 1958年にはプルマン式でありながら非冷房のため2等C寝台と3等寝台を併設した軽量合造寝台車ナロハネ10形が少数製造された。同年に近代化された特急用の20系客車が登場し、さらに翌1959年にはナロネ21形の流れを汲んだプルマン式二等B寝台車のオロネ10形が開発される。 オロネ10形は2.9m幅の大型車体を持ち、電気式冷房装置と複層ガラスによる固定式側窓を備え、ドアの遠隔鎖錠ができない点を除けば質的には20系と遜色なかった。また冷房電源は自車床下のディーゼル発電機でまかないながらも、マロネ級の各形式より10t近くも軽量化されていた。以後1965年までに100両近く製造され、老朽化した戦前形の3軸ボギー式マロネをほとんど淘汰することになる。
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マロネ(1等寝台車)時代
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「国鉄マロネ40形客車」の記事における「マロネ(1等寝台車)時代」の解説
1960年に国鉄は2等級制に移行し、マロネ40・41形も1等寝台車となった。製造後10年以上を経過し、特にマロネ41形には先にも記したとおりの大規模な体質改善工事が行われている。 20系の増備によって特急列車運用から撤退した後は、東海道・山陽本線および鹿児島本線急行に限定される形で運用されたが、線路条件から牽引能力にまま余裕のあったこれらの路線以外では、重いマロネ級車両は使用が避けられたという事情による。このため東京 - 大阪間夜行急行にはマロネ40・41形が多く充当された(特にマロネ40形については東海道本線以外に区分室の需要が殆どなかったという事情もある)。 東北・上信越・北陸方面については、碓氷峠・板谷峠など勾配区間の存在と逼迫する輸送力の問題から、オロネ10形の直接投入で従来の3軸ボギー式老朽マロネを置き換えた。通常、旧型車が辿る地方路線への転用いわゆる「都落ち」は、マロネ40・41形に関する限り起こらなかったと言える。 1964年の東海道新幹線開業で東京 - 大阪間夜行急行が大幅に削減されると旧型の優等寝台車は余剰気味となった。更に老朽化が進んだこともあり、マロネ40形の一部は業務用車両へ改造され最終的に1970年までに現役を退いた。 またマロネ41形も1972年までに一般営業から退き、最後に残った20番台の2両も1974年にマヤ43形に改造されたことで形式消滅した。
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