ボリシェヴィキの支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:14 UTC 版)
「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「ボリシェヴィキの支配」の解説
4月4日、ボリシェヴィキに先導されたトリー・スヴャチーチェリャの船員委員会は次のようなスローガンを公言した。「全水兵、兵士、労働者同志諸君に告ぐ、互いに強く支え合い、印刷物によるブルジョワの声に耳を傾けるな…我らが強大なる団結を妨げるために水兵、兵士、労働者のあいだに不和を生じさせようとする声に。」 4月6日には、トリー・スヴャチーチェリャの乗員は、ペトログラード労働者・兵士代議員ソヴィエトを歓迎する決議を採択した。ペトログラードでは、サーカス場にて黒海艦隊の水兵および兵士、セヴァストーポリ市ならびにセヴァストーポリ港の労働者の代表団が集会を開いていた。集会には、ペトログラードの兵士や労働者、党活動家が招かれていた。 4月17日には、トリー・スヴャチーチェリャの船員委員会は、全水兵、兵士、労働者に対して、ブルジョワとの戦いのために団結し、ブルジョワの印刷物を信用せず、『プラヴダ』、『社会民主主義者』、『ペトログラード評議会通信』といった革命新聞だけを取り寄せて読むよう呼び掛けた。声明は、次のようにして締め括られた。「同志諸君、確かに記憶しよう、ただ労働者との団結にのみ我々の力はあるのだ。」 6月1日、トリー・スヴャチーチェリャの艦長M・M・リームスキイ=コールサコフ海軍大佐はシンフェローポリ評議会(ソヴィエト)の代表に艦上での演説活動を禁じた。すると同日、セヴァストーポリ評議会委員会は、艦長は船員に対して謝罪すべきであると決議した。そして、リームスキイ=コールサコフ大佐はそれをするを余儀なくされた。 6月初め、コルチャーク艦隊司令官がトリー・スヴャチーチェリャ、シノープ両艦の乗員を解散させようとすると、艦隊臨時代表集会と駐屯部隊は、士官から武器を取り上げて艦隊司令官と彼の参謀長を解任すべしとする議決をした。臨時政府への報告のための出張をよいことに、コルチャークはセヴァストーポリから追放された。艦隊司令官には、元トリー・スヴャチーチェリャ艦長で当時は第2戦列艦戦隊長を務めていたV・K・ルキーン海軍少将が就任した。 9月1日には正式にロシア共和国が誕生し、10月には同共和国政府は改めて黒海艦隊が同共和国の管轄下にあることが宣言された。その一方で、ウクライナ人の占める割合の高かった黒海艦隊では早くから艦船のウクライナ化が進められ、いくつもの艦船でウクライナの国旗が掲揚された。他方では、ボリシェヴィキの活動によって赤旗を掲げる艦も少なくなかった。 1917年10月には、臨時政府公認のウクライナ自治政府であるウクライナ中央ラーダ総書記局から、黒海艦隊のウクライナ化の可能性について調べるためD・V・アントーノヴィチがオデッサ、ヘルソン、ムィコラーイウへ派遣された。調査の結果、黒海艦隊のウクライナ化は広範囲にわたって行われていたが、組織立っておらず、統率も取れていないということがわかった。このとき、現地にあった艦のうち最も強力にウクライナ化が進んでいたのがウクライナ国旗を掲げた戦列艦ヴォーリャで、一方、トリー・スヴャチーチェリャではボリシェヴィキに対するシンパシーが高かった。戦列艦以下の艦船は日和見的な態度を取っており、すなわち両戦列艦での動きにそれぞれ迎合する傾向にあった。アントーノヴィチは、黒海艦隊は素質、精神ともにウクライナ人のものであると結論付けた。 11月20日、十月革命に反対したウクライナ中央ラーダが第3次ウニヴェルサールでウクライナ人民共和国の成立を宣言すると、黒海艦隊は同共和国が所有権を主張するところとなった。11月22日には、オデッサやセヴァストーポリにあったいくつかもの艦船にウクライナ国旗が翻った。黒海艦隊司令官A・V・ニョーミツ海軍少将は、ウクライナ総書記局に電報を打ち、黒海艦隊がウクライナの司法の下に入ることを伝えた。 しかし、ロシア・ソヴィエト共和国政府はこれを認めず、12月、ウクライナ領内へ軍を進めた。12月16日にはセヴァストーポリに侵攻した赤軍によってトリー・スヴャチーチェリャは奪取され、赤色黒海艦隊へ編入された。1918年1月12日には、セヴァストーポリ評議会、黒海艦隊中央委員会(ツェントロフロート)、農民代議員評議会、市自治組織代表者、港湾工場総委員会、黒海艦隊委員長、全艦船と全部隊の代表者および社会主義組織からなる軍事革命本部(VRSh)の結成が採択された。その一方で、1月14日には「ウクライナ人民共和国艦隊に関する臨時法」が制定されたが、このときウクライナ人民共和国海軍は赤軍の侵攻によりすでに艦船を失った状態であった。 1月19日には、軍事革命本部はドン地方におけるA・M・カレージン将軍麾下の義勇軍との戦いのため、トリー・スヴャチーチェリャから200 名、イオアン・ズラトウーストから100 名の陸戦隊を派兵するよう命じた。
※この「ボリシェヴィキの支配」の解説は、「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の解説の一部です。
「ボリシェヴィキの支配」を含む「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事については、「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の概要を参照ください。
- ボリシェヴィキの支配のページへのリンク