ボリシェヴィキと富農・農民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:10 UTC 版)
「クラーク撲滅運動」の記事における「ボリシェヴィキと富農・農民」の解説
クラークはもとは拳を意味し、村の金貸し、抵当権設定者、裕福な農民を意味した。しかし、富裕な農民ならだれでも時々は金貸を期待されており、人民主義者の革命家で農村の医師であったO.V.アプテクマーン(Osip Aptekman)は、富裕な農民がみんなクラークとは限らないと述べている。一方で、レーニンは、クラーク(富農)、中農、貧農を経済用語としては区別できず、富農の基準を問われると、「誰が富農かなんて、すぐにわかるだろう」と苛々しながら答えるほどの認識であった。 しかし、「富農」の定義は実際には難しく、数値による定義などはほとんど不可能であった。1927年時点では、最も豊かな農民でも、平均7人家族で、牛を2〜3頭所持と10ヘクタール以内の耕地しかもっておらず、最も豊かな農民のひとりあたりの収入は、貧農のひとりあたりの収入よりも50-56%多い程度であった。また、中農も他人を雇っており、貧農にも他人を雇うものがおり、富農だけが雇い主であったわけではなかった。こうした矛盾がありながらも、農民を階層によって区分することは、階級対立という仮定上の誤った見解の上にたっていた。 プロレタリアートを支持母体としたボリシェヴィキでは、富農をブルジョワとして敵視するだけでなく、農民そのものを「遅れた階級」として軽蔑する傾向があり、たとえばプレハーノフは農民を「残酷で無慈悲、野蛮」な「荷物を運ぶだけの動物同然」だと非難し、レーニンも農民は「浅ましいほどに利己主義的である」と侮蔑した。秘密警察チェーカーのジェルジンスキーは1917年8月に「ある社会階級の根絶」による政治的社会的勢力の変化を語ったし、ジノヴィエフは「我々はロシアの人口1億のうち9000万と協力しなければならないが、残りのものについては弁護の余地はない。彼らは根絶しなければならない」と1918年の演説で述べた。作家ゴーリキーにいたっては、「粗野で愚鈍な、人口のふくれあがった」農民はやがて死に絶え、「教養ある理性的でエネルギッシュな人々が彼らにとって代わるだろう」と、農民が根絶されて「教養ある理性的」な共産主義者によって営まれる未来社会への希望を語り、農民の「動物的な利己主義」と「文盲の農村」がロシアの進歩を妨げていると非難した。フルシチョフは、「スターリンにとって農民は屑だった」と語っている。 このようにボルシェビキは農民を信仰心が強く、慣習に執着する未開の人々とみたが、これは、工場の労働者階級(プロレタリアート)を進歩的とする一方で農民は愚昧な存在であると考えたマルクス主義にその源流があった。 しかし、レーニンは貧農・中農を革命に役立つとみなし、事実、ロシア革命で農民は兵士ともなり、工場労働にも従事し、革命を助け、内戦では数百万の農民が死んだ。
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