ボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂
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「ロシア社会民主労働党」の記事における「ボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂」の解説
1900年に新聞「イスクラ」を創刊したレーニン、マルトフ、プレハーノフらのグループが中心となり、1903年にブリュッセルで第二回党大会が開かれた。大会には26の組織を代表し、51票の議決権を持つ43名の代議員が参加した。そのうち過半数は『イスクラ』編集局を中心とするグループ(イスクラ派)だった。 大会は党の綱領と規約を決め、中央機関を選出した。中央機関はロシア国内において党を実践的に指導する中央委員会、国外から思想的に指導する中央機関紙、中央委員会と党評議会が対立した場合に調停を行う党評議会という三つの機関によって構成されることになった。『イスクラ』は中央機関紙となり、イスクラ派が党を支配することになった。 しかし大会の審議過程でイスクラ派は分裂した。大会の序盤で党員の資格を規定する党規約第一条が審議され、レーニンは党の組織的活動に参加することを党員の条件としたのに対し、マルトフは党に対する支持だけを条件とした。この点に関してはマルトフの案が採択された。しかし終盤で中央機関紙の地位を得た『イスクラ』編集局の選挙が行われたとき、レーニンはもともと『イスクラ』編集局を構成していた6名のうち3名を排除し、プレハーノフ・マルトフ・レーニンの3人で編集局を構成する案を提示し、採択された。これには排除された3名だけでなくマルトフも激しく反発し、大会後に決定を承認する多数派と決定を批判する少数派が相互に批判しあうことになった。これがボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)の発端である。 大会直後にはレーニンとプレハーノフが『イスクラ』編集局を握っていたが、プレハーノフがのちにメンシェヴィキの側に移ったため、レーニンは編集局から脱退せざるをえなくなった。『イスクラ』はメンシェヴィキの機関紙となり、ボリシェヴィキを激しく批判した。レーニンは『一歩前進、二歩後退』などの著書で対抗し、1904年末には分派の中央部として「多数派諸委員会ビューロー」を創設した。このビューローは1905年1月に新聞『フペリョード』を創刊した。
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