ボリシェヴィキの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:30 UTC 版)
「ハンガリー・ルーマニア戦争」の記事における「ボリシェヴィキの介入」の解説
1918年4月9日、ベッサラビアはルーマニアに併合された。この併合によって古いルーマニア民族の土地と新しいルーマニア民族の国家が一つになったが、ソ連はこれを承認せず、ルーマニア王国とソ連との間で事実上の戦争状態となった。だが、白軍、ポーランド、ウクライナそして連合軍と戦っているソ連赤軍にはルーマニアと本格的に戦う兵力の余裕はなかった。ハンガリーに共産主義政権が成立するまではドニエストル川を越えて散発的な交戦があっただけだった。この期間にルーマニア軍は再建されており、これらの攻撃は成功しなかったが、赤軍は常にベッサラビアに駐留するルーマニア軍と対峙していた。最も大きな戦闘が1月末に発生し、赤軍がルーマニアの街ホティンを占拠したが、数日後にルーマニア軍の反撃によって潰走している。この後、赤軍の攻撃を阻止するに十分な兵力のルーマニア軍がベッサラビアに配置されることになった。その後、フランスのダンセルム将軍に率いられた連合軍(フランス軍3個師団、ギリシャ軍2個師団)がポーランド、ウクライナそしてロシアの義勇軍の支援を受けてオデッサの赤軍に攻撃を行い、これを占領している。これらの状況を受けて、次の2ヶ月間、ベッサラビアは平穏だった。 連合国の攻撃の助けを受けて、3月21日にルーマニア軍第39連隊がティラスポリを占領しているが、同時期にトランシルヴァニアでも戦闘をしていたため、ルーマニア軍はこれ以上の兵力を割くことはできなかった。 4月になって、ダンセルム将軍はベリョーゾフで赤軍に敗北し、オデッサから撤退させられ、重装備を遺棄してベッサラビア南部を通って後退した。このため、ルーマニア軍は赤軍の大規模攻勢に備えるべくベッサラビアに陣地を構築し始めた。 5月1日、チチェーリン・ソ連外相はルーマニアに対し、ベッサラビアから撤退しなければ武力を用いるとの最後通告を発した。同時に赤軍がドニエストル川に集結する。ルーマニア軍を東方からの攻撃に備えさせることによって彼らはハンガリー共産政権への圧力を緩めようとしたのである。このためにルーマニア軍は第7師団をティサ川戦線からベッサラビアへ振り向けている。 最後通告以降、ベッサラビアのルーマニア軍に対する攻撃は激化し、5月27日から28日には数千人の赤軍兵士がベンデルを攻撃している。赤軍は一旦は市内に突入したものの、フランス軍の助けを受けたルーマニア軍によって撃退されている。 赤軍に対抗するために、更に2個師団(第4、第5師団)がこの地域に派遣されている。また第15歩兵師団を主力とした地域軍が南部ベッサラビアに編成された。
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