ボリシェヴィキとの戦い
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「アレクセイ・カレージン」の記事における「ボリシェヴィキとの戦い」の解説
十月革命が勃発した1917年10月25日、カレージンはボリシェヴィキによる権力奪回は犯罪的であるという呼び掛けを以って行動に出た。彼はまた、ロシアに合法的な権力が復興されるまで、軍政府はドン軍管州における全権を持つと宣言した。10月27日、州は戦時体制に入ったと宣言し、ボリシェヴィキとの戦闘組織のためノヴォチェルカースクへ臨時政府とロシア共和国臨時評議会のメンバーを招聘した。また、ドン、クバーニ、テーレクの各コサック軍の同盟を目指すとともに、反ボリシェヴィキのウクライナ中央ラーダとの連絡を取った。11月2日には、ドン地方へ元ロシア軍総司令官のM・V・アレクセーエフ将軍が到着し、「アレクセーエフの組織」という名称の下、ノヴォチェルカースクに参謀本部を開いた。カレージンは、「ロシア将校のための避難所を与えて欲しい」という彼の請願に同情的に接したが、コサック軍の臨時政府に対する極めてネガティヴな雰囲気を考慮に入れ、アレクセーエフに1 週間以上はノヴォチェルカースクへ留まらないでほしいと頼んだ。一方、11月から12月にかけては、ウクライナ中央ラーダの軍事書記長であるS・V・ペトリューラと会談を持ち、西部の前線にあったドン・コサック軍部隊がドン地方へ戻るためにウクライナの領土を通過する際の条件について話し合われた。 1917年11月26日、ロストフとタガンロークにおける権力がボリシェヴィキに奪取された。カレージンは、彼の言葉によれば、「最初の血を流れ出させることは恐ろしいことだ」と感じられたが、それでも彼は軍事闘争へ乗り出す覚悟を決めた。コサックらは当初戦闘に巻き込まれることを嫌ったので、カレージン将軍はアレクセーエフ将軍へ支援を頼まざるを得なかった。この「アレクセーエフの組織」が12月25日に義勇軍となって合法化されると、カレージン将軍派アレクセーエフ将軍とコルニーロフ将軍とともに三頭体制を敷いた。ドン州の全権はカレージンに属した。 ドンにやって来た社会活動家たちは、政治的策動が遅々として進まないことについてドン政府を非難した。しかしながら、アレクセーエフが証言するような、「ボリシェヴィズムの理想がコサックの中に幅広く信奉者を獲得し」、なおかつそれら信奉者が「ボリシェヴィズムは富裕層、つまりブルジョワジーとインテリゲンツィヤにだけ敵対する方向性を持っていると深く確信されていた」という状況下にあっては、恐らく政府もドンのアタマンも決定力を示すことはできなかったであろう。 ロシア・ソヴィエト共和国がウクライナ人民共和国へ最後通牒を付きつけ、侵攻を開始すると、カレージンは全ドン・コサック軍部隊へ「最も屹然たる支援をウクライナの人々へ、ボリシェヴィズムとの闘争にあるその代表者へ与えよ」と命じた。 恐らくアタマンにとっては唯一の軍事力であったのが、コサック少佐でやがて大佐になったV・M・チェルネツォーフが、その戦死する1918年1月21日まで指揮した、主に学生など若者から編成されたパルチザン隊(ツェルネツォーフツィ)であった。 1918年1月28日、コルニーロフ将軍は義勇軍がクバーニまで行軍すべしとする決定をカレージンに通告した。赤軍が侵攻し、コサック側からの支援が得られない状況下にあっては戦死する危険性が高かった。1月29日、カレージンは政府会合を召集し、そこで義勇軍指導部の決定を知らせ、ドン州のボリシェヴィキからの防衛のための銃剣がわずか147 本しか前線にないということを知らせた。彼はまた、このような状況では自分は軍アタマンの全権を放棄することになると表明した。 その日、カレージンは心臓への銃弾によって自分にけりをつけた。遺書において、彼はアレクセーエフ将軍へ自分の死出の旅について「コサック軍が自分らのアタマンに続くことを拒否したため」と説明した。
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