ボリシェヴィキによる宗教弾圧への抵抗
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「ティーホン (モスクワ総主教)」の記事における「ボリシェヴィキによる宗教弾圧への抵抗」の解説
「ロシア正教会の歴史#ソ連:無神論政権による弾圧の時代」も参照 おりしもロシア革命の嵐が吹き荒れる中、聖務会院制から解放された新しい活動に動き出している教会の姿を実感しつつ指導に当たっていたティーホンは、当初ボリシェヴィキに対して厳しい態度をとった。ボリシェヴィキが教会財産の没収を行い、神品・信徒に対して暴行・略奪を行っていることに対して抗議を行い、信徒に対しては無神論者を聖堂に入れないように指示をし、ボリシェヴィキが行いを改めない場合には破門することまで示唆した。 ボリシェヴィキは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}その名(ボリシェヴィキは「多数派」の意)に反して、決して多数国民の支持を得ていた訳ではなく、臨時政府の結束の無さの間隙を突いて武力で政権を奪取したに過ぎない[要検証 – ノート]存在であった。無神論者である自分たちが破門されることは自らの心理的には痛痒は無いものの、ボリシェヴィキに対する国民からのイメージが破門によってさらに悪化すること、さらに教会が地方の農民と結びつき、さらに白軍と結びつく危惧の存在は、ボリシェヴィキにとって脅威であった。ティーホン総主教は帝政復活を考えていた訳ではなかったが、一信徒としての皇帝ニコライ2世一家に対して領聖が出来るように配慮し、銃殺された後には埋葬式を行ったことも、ボリシェヴィキの神経を逆撫でした。 ボリシェヴィキは、ティーホン総主教の態度への報復として、各地で聖職者・修道士・信徒を投獄した。こうした中、ティーホン総主教の身に危険が迫っているのに対し、信徒代表者達は総主教の護衛を買って出た。聖務会院制のもと国家宗教として機能するのみの腐敗したロシア正教会は、弾圧すればあっさり瓦解する、そのように考えていたボリシェヴィキにとり、過酷な弾圧が開始されたのにもかかわらずロシア正教会が強固に存続し続けることは大きな誤算であった。 ボリシェヴィキが長期的に政権を握り続けること、ボリシェヴィキによる宗教弾圧が想像以上に残酷さの様相を強めていくことを認識するに至ったティーホンは、政権に対する姿勢を緩和した。聖職者に対しては政治に関わらないように指示したが(これは内戦における中立を指示するのと同義)、ボリシェヴィキの教会に対する弾圧はますます強まっていった。 焦りを感じるボリシェヴィキ政府は、飢饉救済のためと称して奉神礼に使用する聖器物の押収を開始した。これに対しティーホンは、必要最低限の聖器物以外は供出するように信徒に呼びかけたが、「必要最低限の聖器物以外」の部分だけをボリシェヴィキはプロパガンダに利用した。異なる教派であるローマ教皇からの聖器物の代替となる金額を用意する提案も無視して、さらに聖器物押収を強化した。これら押収された貴金属が飢饉救済に使われたのかどうか、その使途は不明である。レーニンは、飢餓救済のためではなく国家の外貨準備のためにこの押収を行ったと政治局内部で公言していた。 1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人が処刑された。
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